Detroit: Become Humanをプレイしました(知的ぶりたい編)

 前回の記事では自分の愚かさ、短絡さを書きましたが今回は知的ぶりたいと思います。多分読んでもつまんないでしょう。一応言っておくと本編の考察ではありません。

 本題に入ります。そもそも僕は昔から哲学っぽいことを一人で妄想するのが好きでして、色んな映画やゲームの影響でしょうが、人間の意識や自我とはなんなのかと考えてみたり、また技術畑の人間なもんですから、じゃあ人工知能は自我を持てるのかという話題にも興味がありました。そんな中でのデトロイトビカムヒューマンはまさにドンピシャの作品だったわけです。本作ではアンドロイドは果たして人間と同様の自我を持つことができるのかが大きなテーマになっていたと思います。そして本編では自我を持った個体を変異体と名付けていました。ここでまず思ったのは人間の自我とは一体何なのかということです。本編ではそれらは当然のものとして一切掘り下げられません。人間は機械と違って自我を持ってることが大前提になっているわけです。そして、それらを自我が無いはずの機械が持てるかどうかにだけ物語の焦点が当たっているように見えます。しかし、これは僕個人の意見ですが、本編の物語の裏には直接触れられこそしないものの、人間の自我の不確かさというテーマが含まれていたように思うんです。

 そう思うに至った訳を書きたいのですが、その前に情報系の端くれである僕が人工知能をどう見ているのか書きたいと思います。最近はもう色んなところで人工知能という言葉を聞きます。やれAIが運転するだの将棋をするだの絵を描くだの。捉えようによってはSiriだって人工知能と言えます。ここ数年ディープラーニングだなんだで人工知能の進歩が目覚ましいというのは技術畑に入って日の浅い僕にでも分かります。そして世間にはいつか近い将来にAIが自我を持つんじゃないかと、どの程度本気なのか分かりませんが言っている人もいます。でもそれらAIがどういう原理で動いているのかある程度知っている身としてははっきり言って眉唾ものです。今や全盛のディープラーニングなんてのは蓋を開けてみれば、ただの掛け算と足し算が大量に繰り返されているだけのものです。そんなものに自我が宿るというのならそこら辺の電卓も自我を持ちます。AIや人工知能という言い方が変に夢を抱かせてしまいますが、結局はブラウザやOSと同じプログラムの一種です。0と1の羅列が電気信号として半導体の中を流れる物理現象に過ぎません。

 さてここまで読むと僕はまさにアンドロイドは自我を持たない派に思えるでしょう。というかそう書いてるわけです。でも、もし私たち人間の考える自我というものはどこにも存在しないとしたらどうでしょう。言い方を変えれば、人間に自我がないとしたらどうでしょう。お気づきでしょうが、さっきの僕の人工知能に対する考えでいくと人間も自我を持っていないことになってしまいます。ご承知のように人間の体なんてのはものすごく複雑ではあれど化学反応という物理現象で動いていますから。さっきの論理で行くと、もとを辿ればただの物理現象である人間が自我を持つなんて眉唾もんです。昔どこかで読んだのですが、動物の胚を研究している生物学者へのインタビューで、胚に命はあると思うかと尋ねられ、「命だと思ったことはありません、こんなのはただの細胞です。」と答えていたのがずっと記憶に残っています。その胚が分裂しただけの細胞の塊である僕たち人間は本当に自我なんてもっているんでしょうか。こんな話もあります。人間が腕を動かすとき、腕を動かそうと意識するより先に、すでに脳が腕の筋肉に命令を出しているそうです。つまり体の化学反応が行動をすでに決めていて、意識というのはそれに追従するだけだというんです。そしてさも自分が考えて行動したかのように錯覚させるのです。これは受動意識仮説だなんて呼ばれています。もし人間の意識・自我がこの仮説のとおり錯覚に過ぎないのだとしたら、自我があると主張している私たち人間はまさに同じく自我があると主張するDetroitの変異体と何も変わらないことになります。

 しかし、たとえ錯覚であったとしても、それを自我として私たち人間が認識しているのならば、逆説的に自我があると主張する変異体たちも自我があると言っていいんじゃないでしょうか。普通の意味での自我とは違いますが、こういう解釈もありだと思います。

 

 少し話が変わりまして、このDetroitについての記事を書きたいと決定的に思ったのは、コナーがクロエを任務のために撃つか否かの選択を迫られるシーンでした。それまで僕は自分だったらこうするという選択肢ではなく、コナーをできるだけ任務に忠実させる選択肢をとってきました。しかしこのシーンで僕は激しく悩んでしまいました。このゲームで最大の葛藤ポイントだったと思います。個人的にはハンクにも嫌われるし、人の見た目をした無抵抗のものを撃つことへの少なからぬ嫌悪感を感じていました。一方で撃てば任務のための重要な情報をもらえるということで、コナーだったらどうするだろうと僕はすごく揺れていました。しかし悩むうちに、撃ちたくないと思っているのは自分なのかコナーとしてなのか、任務を達成したいのはコナーなのか自分なのか判然としなくなってしまいました。それまで僕は他のゲームと同様に、自分とは別人格のキャラクターがいて、そのキャラクターの行動をコントローラーで手助けしてエンディングまで導くというマインドでした。(キングダムハーツを例に取った場合、プレイヤーはアクション部分に介入するだけであり、そのキャラクターの人格を変えたりはすることはできません。)なのであくまでコナーと自分は別人格と認識していたのですが、ここにきてプレイヤーこそがコナーのAIであり、コナーの自我とはつまりプレイヤーである僕自身の自我そのものであると感じたわけです。僕が選択の度にしてきた葛藤はコナーの変異の表れに他ならなかったのです。ということは、自我を持っている(と主張する)僕がゲームの始めでコナーを操作し始めた時点で、コナーは変異体になったのです。これは自我を持つと主張する変異体を同じく自我があると主張する人間が操作するというメタ構造になっており、変異体と自分を同一視するように開発者は仕向けていたのかなと邪推したりしています。変異体と自分を同一視したときに、「ロボットも人間と同じように自我を持つんだ」と捉えるか、「人間の自我もロボットのように不確かなものだ」と捉えるかは人次第だと思います。僕の場合は上に長々と述べてきたように後者だったようです。

 余談ですが、アンドロイドたちは自我に目覚めたあと、みな一様にジェリコを目指していました。どうやって彼らはジェリコを知ったのでしょうか。最初ジェリコにいた人たちはあまり外には出ていない様子でしたし。そしてアンドロイドの産みの親であるカムスキーは当然のようにジェリコの場所を知っていました。なんらかの目的でカムスキーは設計時に、どこかのタイミングでアンドロイドを変異させジェリコに向かうようプログラムしていたと僕は考えてます。結局アンドロイドの自我は錯覚だった説推しですので。なんにせよ、カムスキー周りの話に開発者のアンドロイド引いては人間の自我に対するスタンスが込められてそうです。

 

 すごく長くなりました。言いたいことを分かりやすく書いたとはとても言えないですが、これで締めくくろうかと思います。感想だけでなく、「rA9」など本編の考察もしてみたいところですが、大変そうなのでやめときます。