すずめの戸締まり 初見感想

 先日、新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」を観て来ました。

 


 入場特典として「新海誠本」なるものが配られたのですが、パラパラとめくってみた感じどうやらこの映画の骨子が新海誠監督の言葉で書かれているみたいなんです。すごい読み甲斐がありそうです。ありそうなんですが、映画を観終わった直後、自分の感想もまとまっていない内にこれを読んでしまってもいいのだろうかと僕は思ったわけです。だってほぼ答えじゃないですか。いや、感想に正解も間違いもないとは思っています。むしろ自身が受け取ったものだけが正解だとすら思っています。でも感想というのは割とあとから加工されてしまいがちでして、他人の感想を聞いているうちにいつの間にやら最初に抱いた生の感想とは様変わりしていたりするものです。まして観終わった直後のほやほやの感想に監督の解説なんて混ざりようものなら、できあがったものはもはや僕の感想ではなくなるでしょう。この記事の趣旨はそこにあります。要は「新海誠本」を読む前に生の感想(&考察)を残して置きたいなと思ったのです。

 


 感想と言いましても、そんなのあまり書かないものですから書き出しがわかりません。とりあえず言えることはこの映画もまた「君の名は。」、「天気の子」に引き続きラブコメ×天災でした。大雑把なストーリーライン、つまりはじめに恋愛してから天災で片方が犠牲になり、それを救い出す、というのも同じです。もはや王道です。しかし中身は大きく違います。今回の天災は地震です。詳細は省きますが、地震は各地の廃墟にある後戸からはみだしてきた巨大なミミズの仕業なんだそうです。そのミミズが出てこないよう後ろ戸を閉めるのが閉じ師のお仕事。閉じる際のお作法としては、①まずそこが廃墟になる前の人々の暮らしを思い、②次に祝詞を唱え、③扉に鍵を掛ける。一体この儀式はなんなんでしょう。それを紐解くにはまず新海誠監督の哲学から考える必要があるんじゃないかと思います。

 


 大自然において人間はあまりに非力な存在であること。これは今までの作品においても共通のテーマだったと思います。彗星落下に異常気象、地震大自然の活動に人間は翻弄されるだけの存在です。人間には災害をコントロールすることも自然の摂理を変えることも、時間の流れを止めることも出来ません。普段の暮らしでは社会に揉まれて忘れてしまいますが、人間は広大な宇宙のほんの片隅にある地球の表面にへばりついてるだけに過ぎません。この世界の主役は人間ではなく、大自然なのです。自然には抗えません。普段はうまく自然と付き合えているのですが、大災害が起きたときや身近な死に触れたとき大自然への畏敬を思い出します。そこにあるのは理不尽だと糾弾しても空しい、ただただ非情な世界です。この考えは新海誠作品に通底するものではないでしょうか。

 しかし、この世は残酷だ、で終わらせないのが新海誠作品の良いところです。そんな残酷なだけの世なら生きていたいと思わないですから。それでは何が私たちを生かしているのか。それは大真面目に愛です。宗教にかぶれたわけではないです。愛です。恋愛が最たる例でしょうが、家族愛でも友愛でもなんならゲーム愛でもいいと思います。それのために一年でも一日でも一時でも長く生きていたいと思わせてくれるものです。

 ですが、上に述べたように大自然の強大さを前に愛ができることはありません。いとも簡単に愛するものは奪われ、二度と帰ってきません。新海誠作品の真髄とは、しかし、愛が大自然に少し抗い奇跡を見せてくれるところだと思っています。(RADWINPISの楽曲もこの自然の摂理vs愛に主眼を置いてるものが多い気がします。)ややもするとただのふわふわしたファンタジーになってしまいそうですが、そこはリアルに寄せた背景描写、人間模様で地に足付いたものにしてくれます。そうした奇跡は大災害で被災した人、自分含め実際に被災したわけでなくても大震災のニュースなどで無力さを味わった人々に希望を持たせてくれるのです。

 


 それを踏まえての今回の映画です。今作のテーマは災害の記憶との向き合い方なんではないかと僕は感じました。記憶に鍵を掛けて忘れてしまうのか、はたまた…というところでしょうか。今回初めて東日本大震災がでてきたのもそういう訳だと思います。発生から10年と1年。10年目という節目であれば皆幾らかは思い出し、思いを馳せるでしょう。しかし10年以上経っていくとき、この先どれだけそんな機会があるでしょう。特に被災者でない人間にとって記憶は風化していく一方です。そうやって忘れられてしまった災害の跡地では後ろ戸が開くのです(エピローグにてそんなような言及があったかと思います)。

 ここで後ろ戸を閉じる際のお作法を振り返ると、①に「そこが廃墟になる前の人々の暮らしを思う」とあります。まさにこの行為は、災害によって奪われた日常に思いを寄せ、皆が忘れてしまった災害の記憶を代わりに思い起こすことなのです。日本全国の忘れられた災害、その開きかけた後ろ戸を人々の記憶に代わり閉じて回るのが閉じ師の仕事ということです。

 


 では②の「祝詞を唱える」はなんでしょうか。(残念ながら僕は口上の前半部がよく聞き取れなかったので、多分にズレた妄想になってしまうかもしれません。)これにはアニミズム的信仰が関わってくるのではと思っています。そもそも山野は神々そのものであり、人間はそこを借りて暮らしているだけであること。神々の引き起こす災害は人間の生活をいとも容易く破壊してしまいます。土地をお返しするので、災害を起こさないでくださいというのがこの祝詞の意味するところでしょう。

 簡単に言ってしまえばそういうことだと思うのですが、ここには考察すべき要素が多々あります。まず、ここで祈っている対象の神様とは一体誰のことなんでしょう。終盤、常世で草太さんが祝詞を奏じた際に「お返しします、おおおおかみ様!」と付け加えていました。大狼?となったのですが、今にして考えてみると、「大大神」のことだったのではないかと思います(違ったらみっともないですけど)。では大大神とは誰を指すのでしょうか。ミミズ?ダイジンたち?自分はそのどちらでもないように思います。すずめの名字である岩戸、これは日本書紀だか古事記だったかの天岩戸を意識したものでしょう。とするならば大大神は日本神話の主神である天照大御神のことなんではないでしょうか。ここからはかなり妄想になります。後ろ戸から飛び出たミミズが倒れる前に、なにやら神々しい光が地面からミミズに向かって伸びていったことと思います。僕はあれこそが天照大御神なのではと考えています。なんならあの光こそがミミズを地面に叩きつけて地震を起こしているように見えたのです。

 ミミズはおそらく禍そのものでしょう。理由は分かりませんが、そのミミズは常世から現し世に出て行きたいだけなのではないでしょうか。しかし神々はそれをよしとしません。ミミズが倒れ、地震が起きた後のことを思ってみてほしいのですが、ミミズは結局また常世に引っ込んでいます。つまるところ、あの光は神々がミミズを地面に叩きつけて懲らしめているのでは、と自分は考えました。堪りかねたミミズは常世に引っ込んでいくと。その下でいくら人間が死のうと神にとっては関係のないことです。人間が血を吸っている蚊を叩くのに、表皮の微生物のことなど気に留めないのと同じことです。

 しかし微生物たる人間にはたまったものではありません。そもそもミミズが出てくる後ろ戸とは人間の作り出したものです。災害によって常世と繋がってしまった扉。すっかり災害のことを忘れ、その扉を放置したのは人間です。人間に見捨てられ、神々にも返却されていない、そんな無法地帯となった場所にある開きかけの扉は、ミミズにとって格好の的なのです。だからこそ閉じ師はその尻拭いとして扉に鍵をかけ、神々に土地をお返しすることで常世との繋がりを消滅させているのではないでしょうか。

 神々はミミズを現し世に出したくない、人間は地震を起こしてほしくない。後ろ戸を閉じる神力じみた鍵は両者の利害が一致しているために、神々から与えられたものだと思います。しかし、閉じ師がしくじった際には容赦なく神が直接手を下し、その弊害として地震が引き起こされる、そんな構図になっているのではないでしょうか。これが②の祝詞の奏上の裏にある背景だと考察したのですが、裏読みしすぎですかね。

 

 

 

③「扉に鍵を掛ける」

 鍵を掛けるという行為は、タイトルに戸締まりというワードがあるように今作においてかなり重要な意味合いを持っていることは容易に推測されます。

 この話題に入る前にすずめの抱えるパーソナリティの問題について触れたいと思います。実は僕は終盤まですずめのパーソナリティの問題に気づきませんでした。すずめが常世で幼い自分にイスを渡す際に、「私は何ももっていないと思っていた」と言い出して、僕は「え!?そうだったの?」となった具合です。たしかに昔なにやらあったのは時折フラッシュバックのように挟まれる回想で分かってはいたのですが、それが現在のすずめに影を落としているように見えていなかったんですね。両親はいないけれども、母親代わりの人に愛情こもったお弁当を作ってもらって、友人や人間関係にも恵まれ、不自由もなく暮らし、イスを見れば亡き母の愛も感じられて、最近は好きな人ができたり、旅先では良い人に恵まれておいて、何も持っていないと思っていたんですかと。でも改めて言動を振り返ってみると、割と捨鉢な性格をしているんですよね。動くイスや喋る猫のファンタジーで誤魔化されていましたけど、このご時世に若い女の子がヒッチハイクで一人旅など危機意識の欠片もありません。「天気の子」においてあれだけ家出少年の危うさを描き出しておきながらです。他には「死ぬのは怖くない」、「生きるも死ぬも結局運次第」などと自分を大事にしてるとは思えない発言も多々ありました。やはり震災で母を亡くしたことでこのような死生観が形成されたのでしょう。同時に、失った母親からの愛を求め続けても二度と得られず、そのうちに周りの人から向けられる愛への感性が死んでしまったのでしょうか。自分は愛されていないとそう思っていたのかもしれません。この呪縛の原因はすずめが震災の記憶を処理しきれず、封をしたことにあると自分は思います(たかだか4歳の子供が3/11の日記を黒塗りするのは見ている方にもかなり辛いものがありました)。

 この映画全体を通したすずめの旅の終着点は図らずしも東北の宮城、その忌まわしい記憶の生まれた場所でした。すずめは鍵を掛けて封印した記憶と再び向き合うことになります。(実は僕も宮城には嫌な思い出が、、、関係ないですね。) 常世で4歳の自分にイスを手渡す際に、封印していた記憶が蘇るのですが、すずめは子供の自分にエールを送りました。旅の道中で人々の優しさに触れ、恋をして、環さんとわだかまりをぶつけ合うという経験を経ています。この旅路で「自分はもう全部持っていた」ことに気付いたからですね。そして後ろ戸を閉じて現し世に戻ってくるのでした。これが大まかなすずめのストーリーラインだと思っています。大事なのはラストの戸締まりは決して後ろ暗いものに鍵を掛けるためのものではないということです。「行ってきます」と家を出て学校に行くように、実家を出るときのように、明るい未来に向かって前進するための、震災の記憶から前進するための前向きな戸締まりです。

 ここで閉じ師のお作法③「扉に鍵を掛ける」に話を戻します。この戸締まりもまた前向きな戸締まりのことであると考えられます。震災の記憶は封じ込めたり、忘れて風化させるものではなく、いつかどこかの時点で正面から向き合う必要があります。震災でインフラがやられたなら、補強する。避難がうまくいかなかったのなら避難計画を見直す。食料に困ったのなら非常食を常備しておく。大切な人を失ったなら、二度と失わないように防災意識を高める。やれることはたくさんありますし、人生はまだまだ続きます。どこかで痛ましい記憶にケリをつけ、明るい未来に向かって前進しなければならないのです。その決意表明こそが後ろ戸の戸締まりであり、この映画に込められた思いなんだと僕は思います。

 と、こんなことを言いましたが、僕はこの災害大国にて幸運にもまだ大災害で被害を被ったことも、大事なものを失ったこともありません。だからとても偉そうなことなんて言えた立場ではないです。けれどもそんな自分も災害の体験談を聞いてできることはあるはずです。見聞きした災害の記憶を今後自分はどうしていくのか、目を背けることは簡単ですけど、大事なものを失わないために考えていかなければならないな、と言うのがこの映画を見ての一番の感想です。

 

 

 

 ここから先は上で触れられなかった雑多な感想になります。

 まずダイジンたちです。彼らの正体は草太さんの発言など端々の情報から推察するに、要石の前任者であった150年ほど前の、時の右大臣・左大臣がなにがしかの神様と溶け合ったものなのでしょう。猫の八百万の神とでしょうか。はじめに出てきた白いダイジンはガリガリに痩せていました。これは既に封印が弱まっていたということなんでしょうか。ここで一点疑問なのが、要石は後ろ戸の外にあるものなのかということです。草太バージョンの要石はミミズに直差しだったと思うのです。実は劇中、草太さんは一度も要石が扉のどこにあるか言及していません(記憶が正しければ…)。また要石状態の黒いダイジンの描写もありませんでした。つまり劇中で要石の正しい使用法が明らかにされていないんです。白ダイジンの要石はミミズに刺さっているのが本来の形だったのではないでしょうか。一方で最終的には元の木阿弥に戻る形でダイジンたちが再び要石となったのですが、こちらはミミズに直差しでした。つまるところ、要石が外にあった時点で既に封印は解けていたということではないのかなと思ったのです。

 しかし、ミミズに直挿しが本来の用法であるならば、日本の東と西に一柱ずつ要石があるという発言の筋が通らないような気もします。もしかしたら直差し方式と扉の近くに配置する方式の二種があり、それぞれの効能は全くの別物なのかもしれません。そもそも弱まった要石であるダイジンたちで再び同じ方法で封印ができるものなのか疑問ですしね。それか僕がなにか見落としてる所があるのかもしれません。

 ダイジンたちの謎は深まります。草太さんは嫌い(?)だから要石にしたり、環さんに乗り移ったり、すずめは好きだから導いたりと彼らの思惑は正直わかりません。善悪など考えていない、神様は気分屋だからと言われてしまえばそれまでですが。すずめを導くという目的もどこから湧いてきたのでしょう…?

 この二匹のデザインはどちらも片目だけ反対色になっており、陰陽道でよく見かける白黒の勾玉、太極図と同じです。そして白猫は風船のように膨らむと黒に、黒猫は化け猫になると白色に変化します。これらは何を意味するんでしょうか。調べるに、太極図は陰と陽のバランスを表すそうです。攻撃的な側面が白、守護的な側面が黒として体色に現れるのかなと思ったり。陰と陽には善悪の区別がないということも関係していそうですが特に思いつきません。

 まだ謎はあります。それは常世常世に続く扉です。人生で一度、後ろ戸から常世に行くことができるそうです。しかし、再び常世に行くにはその扉からしか入れないそうです。これに対する考察はもう、作劇上の都合でそうなっています以外僕には思いつきません…。常世では建物が炎上していたり(阪神淡路大震災?)、船が家に乗り上げていたりとなにやら意味深な描写が多かったりしましたけど、正直常世関連をこれ以上考察する気力は残っていません。なにより日本書紀古事記等、古典への造詣がないとどうにも深掘りできそうにない気がしますし…。                 

 


 全然ラブコメ要素について触れていませんでした。というのも今回は女性主人公が年上男性に惚れるという展開でして、男で、ましておっさん化が始まってる僕には感情移入が難しかったのです。「君の名は。」や「天気の子」、「秒速5センチメートル」を見たときは一時的に恋愛脳になったりもしたもんですが、今回はそんなことはなく。コメディ要素に関しては、僕は劇場内で笑い声を出せないタイプなので笑ったりしませんでしたけど面白かったです。キモい顔でニヤついているのでこのマスク時代に感謝です。

 あとの小ネタとしては音楽関連で昭和の懐メロたち「ルージュの伝言」や「夢の中へ」が流れたり、「君の名は。」や「天気の子」の劇伴が挿入されていたりしました。これらは決して回顧的な感傷に浸るためではなく、今この時に必要だから流しているという印象を受けまして、この映画のテーマ、有り体に言えば「過去の上に今がある」というのにも通ずる演出なのかなと感じました。

 その他気になったところと言えば、あの三本脚のイスの出どころです。まずおさらいをしておきます。はじめに母からイス(四本脚)を作ってもらいました。しかしおそらく完成品であるこの四本脚のイスは震災で流されてしまったのでしょう。すずめはイスをなくしてしまいます。そんな時に未来から三本脚のイスが届きます。このイスと共に十数年の歳月を過ごし、常世にて過去の幼い自分に手渡します。

 ここで考えてみてほしいのですが、震災でなくしたイスは壊れてはいても海底かどこかにその残骸が残っているはずです。つまり元のイスの残骸と未来から届いた三本脚のイスが同時期に存在することになります。視点を変えて、三本脚のイスに着目してみます。このイスの出どころを追っていくと、4歳の頃に貰って、それを約十年後の自分が4歳の自分に手渡す。それを無限に繰り返すだけです。このイスは誰かに作られたという歴史を持ち合わせていません。この時間軸上に突然虚無から沸いて出てきたのです。この三本脚のイスは母親が作ったものと言えるのでしょうか…。なぜなら今もなお海底にあるイスこそ母親が作った本物のイスなのだから…。うーん、恐ろしやタイムパラドックス

 


 以上書きたいことはほぼ書けました。正直記憶が怪しいところが多々あるので、ちんちくりんなことを書いているかもしれません。それを世に出すのは恥ずかしく、もう一度観てから内容を改めようかとも思ったのですが、しかしこれこそ僕の初見の生の感想なのであり、それを体面を気にして捻じ曲げてしまうのは、元々の記事の趣旨からも外れてしまうのでやめておきました。

これから「新海誠本」を読もうかと思います。と、その前に小説版を買ったのでそちらから読みます。以上!