2021年に観た映画リスト

計78本

アルゴ

ズートピア

きっと、うまくいく

インクレディブル・ファミリー

ファンタスティック・フォー (2015)

Mr. インクレディブル

ファンタスティック・フォー: 銀河の危機

ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]

レディ・プレイヤー1

ニュー・ミュータント

シャン・チー/テン・リングスの伝説

フリー・ガイ

X-MEN: ダークフェニックス

デッドプール2

LOGAN/ローガン

X-MEN: アポカリプス

デッドプール

X-MEN: フューチャー&パスト

ウルヴァリン: SAMURAI

X-MEN: ファースト・ジェネレーション

ウルヴァリン: X-MEN ZERO 

X-MEN: ファイナル ディシジョン 

X-MEN2

アナと雪の女王2

BURN THE WITCH

劇場版 BLEACH 地獄篇

劇場版 BLEACH Fade to Black 君の名を呼ぶ

劇場版 BLEACH The DiamonDust Rebellion もう一つの氷輪丸

劇場版 BLEACH MEMORIES OF NOBODY 

僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールドヒーローズミッション

ザ・スーサイド・スクワッド

トイ・ストーリー 4

竜とそばかすの姫

ゴジラVSコング

ブラック・ウィドウ

グリーン・マイル

プライベート・ライアン

300

メッセージ

ワンダー・ウーマン 1984

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 

シャザム!

アクアマン

ノマドランド

ジャスティス・リーグ

ジャスティス・リーグ: スナイダーカット

フォレスト・ガンプ

ワンダーウーマン

スーサイド・スクワッド

タイタニック

スタンド・バイ・ミー

ダークナイト ライジン

ダークナイト

バットマン ビギンス

JOKER

ショーシャンクの空に

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

ドラゴンクエスト ユアストーリー

マン・オブ・スティー

インセプション

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

キングコング 髑髏島の巨神

GODZILLA (2014)

X-MEN

名探偵コナン 緋色の弾丸

シン・エヴァンゲリオン劇場版 𝄇

スター・ウォーズ クローン・ウォーズ

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け

ハン・ソロ スターウォーズストーリー

スター・ウォーズ 最後のジェダイ

ローグワン スターウォーズストーリー

スター・ウォーズ フォースの覚醒

スター・ウォーズ シスの復讐

スター・ウォーズ クローンの攻撃

スター・ウォーズ ファントム・メナス

スター・ウォーズ ジェダイの帰還

スター・ウォーズ 帝国の逆襲

スター・ウォーズ 新たなる希望

Detroit: Become Humanをプレイしました(知的ぶりたい編)

 前回の記事では自分の愚かさ、短絡さを書きましたが今回は知的ぶりたいと思います。多分読んでもつまんないでしょう。一応言っておくと本編の考察ではありません。

 本題に入ります。そもそも僕は昔から哲学っぽいことを一人で妄想するのが好きでして、色んな映画やゲームの影響でしょうが、人間の意識や自我とはなんなのかと考えてみたり、また技術畑の人間なもんですから、じゃあ人工知能は自我を持てるのかという話題にも興味がありました。そんな中でのデトロイトビカムヒューマンはまさにドンピシャの作品だったわけです。本作ではアンドロイドは果たして人間と同様の自我を持つことができるのかが大きなテーマになっていたと思います。そして本編では自我を持った個体を変異体と名付けていました。ここでまず思ったのは人間の自我とは一体何なのかということです。本編ではそれらは当然のものとして一切掘り下げられません。人間は機械と違って自我を持ってることが大前提になっているわけです。そして、それらを自我が無いはずの機械が持てるかどうかにだけ物語の焦点が当たっているように見えます。しかし、これは僕個人の意見ですが、本編の物語の裏には直接触れられこそしないものの、人間の自我の不確かさというテーマが含まれていたように思うんです。

 そう思うに至った訳を書きたいのですが、その前に情報系の端くれである僕が人工知能をどう見ているのか書きたいと思います。最近はもう色んなところで人工知能という言葉を聞きます。やれAIが運転するだの将棋をするだの絵を描くだの。捉えようによってはSiriだって人工知能と言えます。ここ数年ディープラーニングだなんだで人工知能の進歩が目覚ましいというのは技術畑に入って日の浅い僕にでも分かります。そして世間にはいつか近い将来にAIが自我を持つんじゃないかと、どの程度本気なのか分かりませんが言っている人もいます。でもそれらAIがどういう原理で動いているのかある程度知っている身としてははっきり言って眉唾ものです。今や全盛のディープラーニングなんてのは蓋を開けてみれば、ただの掛け算と足し算が大量に繰り返されているだけのものです。そんなものに自我が宿るというのならそこら辺の電卓も自我を持ちます。AIや人工知能という言い方が変に夢を抱かせてしまいますが、結局はブラウザやOSと同じプログラムの一種です。0と1の羅列が電気信号として半導体の中を流れる物理現象に過ぎません。

 さてここまで読むと僕はまさにアンドロイドは自我を持たない派に思えるでしょう。というかそう書いてるわけです。でも、もし私たち人間の考える自我というものはどこにも存在しないとしたらどうでしょう。言い方を変えれば、人間に自我がないとしたらどうでしょう。お気づきでしょうが、さっきの僕の人工知能に対する考えでいくと人間も自我を持っていないことになってしまいます。ご承知のように人間の体なんてのはものすごく複雑ではあれど化学反応という物理現象で動いていますから。さっきの論理で行くと、もとを辿ればただの物理現象である人間が自我を持つなんて眉唾もんです。昔どこかで読んだのですが、動物の胚を研究している生物学者へのインタビューで、胚に命はあると思うかと尋ねられ、「命だと思ったことはありません、こんなのはただの細胞です。」と答えていたのがずっと記憶に残っています。その胚が分裂しただけの細胞の塊である僕たち人間は本当に自我なんてもっているんでしょうか。こんな話もあります。人間が腕を動かすとき、腕を動かそうと意識するより先に、すでに脳が腕の筋肉に命令を出しているそうです。つまり体の化学反応が行動をすでに決めていて、意識というのはそれに追従するだけだというんです。そしてさも自分が考えて行動したかのように錯覚させるのです。これは受動意識仮説だなんて呼ばれています。もし人間の意識・自我がこの仮説のとおり錯覚に過ぎないのだとしたら、自我があると主張している私たち人間はまさに同じく自我があると主張するDetroitの変異体と何も変わらないことになります。

 しかし、たとえ錯覚であったとしても、それを自我として私たち人間が認識しているのならば、逆説的に自我があると主張する変異体たちも自我があると言っていいんじゃないでしょうか。普通の意味での自我とは違いますが、こういう解釈もありだと思います。

 

 少し話が変わりまして、このDetroitについての記事を書きたいと決定的に思ったのは、コナーがクロエを任務のために撃つか否かの選択を迫られるシーンでした。それまで僕は自分だったらこうするという選択肢ではなく、コナーをできるだけ任務に忠実させる選択肢をとってきました。しかしこのシーンで僕は激しく悩んでしまいました。このゲームで最大の葛藤ポイントだったと思います。個人的にはハンクにも嫌われるし、人の見た目をした無抵抗のものを撃つことへの少なからぬ嫌悪感を感じていました。一方で撃てば任務のための重要な情報をもらえるということで、コナーだったらどうするだろうと僕はすごく揺れていました。しかし悩むうちに、撃ちたくないと思っているのは自分なのかコナーとしてなのか、任務を達成したいのはコナーなのか自分なのか判然としなくなってしまいました。それまで僕は他のゲームと同様に、自分とは別人格のキャラクターがいて、そのキャラクターの行動をコントローラーで手助けしてエンディングまで導くというマインドでした。(キングダムハーツを例に取った場合、プレイヤーはアクション部分に介入するだけであり、そのキャラクターの人格を変えたりはすることはできません。)なのであくまでコナーと自分は別人格と認識していたのですが、ここにきてプレイヤーこそがコナーのAIであり、コナーの自我とはつまりプレイヤーである僕自身の自我そのものであると感じたわけです。僕が選択の度にしてきた葛藤はコナーの変異の表れに他ならなかったのです。ということは、自我を持っている(と主張する)僕がゲームの始めでコナーを操作し始めた時点で、コナーは変異体になったのです。これは自我を持つと主張する変異体を同じく自我があると主張する人間が操作するというメタ構造になっており、変異体と自分を同一視するように開発者は仕向けていたのかなと邪推したりしています。変異体と自分を同一視したときに、「ロボットも人間と同じように自我を持つんだ」と捉えるか、「人間の自我もロボットのように不確かなものだ」と捉えるかは人次第だと思います。僕の場合は上に長々と述べてきたように後者だったようです。

 余談ですが、アンドロイドたちは自我に目覚めたあと、みな一様にジェリコを目指していました。どうやって彼らはジェリコを知ったのでしょうか。最初ジェリコにいた人たちはあまり外には出ていない様子でしたし。そしてアンドロイドの産みの親であるカムスキーは当然のようにジェリコの場所を知っていました。なんらかの目的でカムスキーは設計時に、どこかのタイミングでアンドロイドを変異させジェリコに向かうようプログラムしていたと僕は考えてます。結局アンドロイドの自我は錯覚だった説推しですので。なんにせよ、カムスキー周りの話に開発者のアンドロイド引いては人間の自我に対するスタンスが込められてそうです。

 

 すごく長くなりました。言いたいことを分かりやすく書いたとはとても言えないですが、これで締めくくろうかと思います。感想だけでなく、「rA9」など本編の考察もしてみたいところですが、大変そうなのでやめときます。

Detroit: Become Humanをプレイしました

 Detroit: Become Humanをプレイしました。こういう自分で選択肢を選んでいくタイプのナラティブゲームは大体面白いですね。どの選択肢を選んだかで自分の性格や傾向を改めて知れるのも面白いところです。例えばマーカスが放送局に侵入するときに目撃者を出してしまって、彼らは気絶させましたけど、これ以上目撃者を出すわけには行かないと焦った僕は、放送室から逃げる職員を撃ってしまいました。結果として世論から反論を買うという最悪な展開になったわけで。どうにも僕の場合、なにか失敗をするとそれを取り返そうとして視野が短期的になってしまうようです。で結果もっと大きな失敗を招くと。数回そんなことがあって流石に学びましたが。他にはゲームに限ってですが、ゴールが目の前にぶら下がってると飛びついちゃいがちという、前からも認識してはいたんですけど、そういう傾向があるなと再確認しました。いつもやっちゃうのはマイクラ人狼で自分が人狼のときに周りに大勢村人が集まっていると、「ここで全員倒せば…!!」という考えに取り憑かれ、よしイケると謎の自信に満ち溢れボコボコにされるというやつです。バカです。今回もありまして、それはカーラがジェリコから脱出するシーンで、アンドロイドたちが出口に向かって走っているんですけど後ろのSWAT部隊に撃たれてどんどん倒れていくんです。自分もこのままでは撃ち殺されてしまいます、さぁどうしますかとなって「走る」、「死んだふりをする」、「降伏する」等々選択肢が出てきます。僕は「出口がすぐなんだから走って逃げるんだ! 弾? 当たらん当たらん!」といって駆け出しました。撃たれました。懲りずに這って逃げました。アリス共々仲良く死にました。これにてカーラ編終了! 本当にもうこのときは絶句しましたし、馬鹿なことをしたと激しく後悔しました。これまでずっと丁寧にプレイしてきたのにこんな下らないことで終わってしまうのかと。ちなみにこのエンドに辿り着いた人は全体の3%しかいないそうです。ルートコンプのために周回している人もいるでしょうから、一周目でこの結末に辿り着いた僕はもう生粋の愚か者と言っていいでしょう。ちなみにこの時は「死んだふりをする」を選択するのがベストでした。僕は死んだふりだなんて賭けをするより逃げた方がいいだろという考えだったのですが、弾に当たらずに逃げるという方がよっぽどの賭けというものです。どんな時も冷静な判断を心がけましょう。一周目終わった後にすぐここからやり直しました。

 

 以上自分の愚かさをつらつらと述べてきましたが、この記事を書き始めたのはもっとなんか知的な事を言いたかったからです。ですが次の記事に回したいと思います。なので今回の記事タイトルは「Detroit: Become Humanをプレイしました(愚かさ編)」に訂正させて頂きます。

2021年にプレイしたゲームリスト

Voice of Cards ドラゴンの島 (Demo)
Detroit: Become Human
Marvel's Avengers (War for Wakandaのみ)
Alpaca Stacka
ドラゴンクエスト10 (Ver. 5.3 - 5.5のみ)
Before your eyes
Hollow Knight (DLCのみ)
アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝
NieR automata  (3C3C1D119440927のみ)
Star Wars Battle Front 2 (キャンペーンのみ)
Horizon zero dawn

バイオハザード RE:3

 

です・ます調はいいよねという話がしたい

表題のとおりです。昔に書いた記事はTwitter感覚の口調だったんですけど、ブログ記事というのは性質上、後から読み返すことが多いもんで、その時に砕けた表現だと読んでて気恥ずかしくなってしまうんです。書いた当時の感情というか気分というかが直接反映されていて、それを客観視するのは中々キツイものがあります。その点、「です・ます」調だと一歩引いて書いている感じがあるので、冷や汗かかずに読み返せます。断定口調も後で読むと恥ずかしいのでそれが無くなるのも良いです。それに記事全体で文体が整うので散らかった印象にならないというメリットもあったりします。昔書いた記事は口語的だったり丁寧調だったりが一つの記事に混在していることも多々あったもんで。ただなんにでも「です・ます」調でいいかと言ったらそんなこともなくて、一歩引いた感じが逆に余所余所しいだとか気取ってるだとかという風に取られかねないのでケースバイケースですね。実際口語の良さもあるわけですし。ただ今後は「です・ます」調をベースにしようかなと思った次第です。変えるかもしれませんが。

僕が体験したスーパーでの出来事

これは4,5年前の話になるのですが、特に誰にも話す機会がなかったのでここにしたためます。

それはいつものようにスーパーに弁当を買いに行ったときでした。その時はまだ寒くて、ジャンパーともウィンドブレーカーともつかぬ、なにか上着を着ていました。弁当コーナーには父親と幼稚園児くらいの男の子の家族がいまして、父親は僕と同じく弁当を見て回っていました。最初、父親の周りをついて回っていた子供はそのうち飽きたのか、近くをうろちょろし始めました。そしてとうとう僕の近くにやってきたんです。ここで不思議なことに、第六感とでもいうのでしょうか、僕はこの子に父親と間違われて袖を掴まれるぞと感じたわけですね。そして、案の定僕が弁当に手を伸ばした瞬間、その子が僕の袖を掴んできたのです。子供の時分に赤の他人を親と間違えたことはあれど、親と間違えられたことはないもんですから、これはどうしたものかと困ってしまいました。腕を軽く振って振り払おうにも離してくれそうにありません。更にはその子の父親がそんな様子に気がつくこともなく、相変わらず弁当棚を見ながらこちらに近づいてきました。その間も僕はどうにかして手を離してもらえないかと思っていたのですが、子供の扱いなんてしたこともないもんですから話しかけるなんて考えも浮かばずもうただ腕をゆするだけでした。そんな事をしてるうちにとうとう父親がその子を挟んで僕の隣までやってきました。僕の左に子供、子供の左に父親と言ったならびで、子供の右手は僕の左手を掴んでおりました。その時子供が取った行動はなんと、「左手で父親を掴む」! じゃあ今掴まれてる俺は誰なんだよ!と。父親と間違えてたんじゃないのかよ!両手に華ならぬ両手に父親か! なんてのは後で浮かんだツッコミで、僕はもう完全に思考停止です。子供のことは分かりません。当然父親は子供に掴まれたので、そちらを見るわけでして、その視線の先には子供に掴まれてる僕も含まれるわけです。万事休す?いやこれこそがチャンスです。「いやー困ったもんですよ」とばかりに飛びっきりの愛想笑いをかませば「あら、うちの子がすいません」という展開にもっていけるに違いないと思った僕は、それはもう渾身の愛想笑いを顔面に広げました。そこで父親が発した言葉は、

「危ないよ!!」。

そう叫んで子供を僕から勢いよく引き剥がしたのでした。そして、子供を抱えるように屈んだ彼は、目をカッと見開いて、恐ろしいものを見るかのような目で僕を見るのです。もう分かりません。子供だけじゃなくて父親も分かりません。え?という顔をした僕はその後もういたたまれなくなって逃げるようにその場を去ったのでしたとさ。めでたくないめでたくない。

なぜこんなことになってしまったのでしょうか、僕の愛想笑いは余程犯罪者じみていたのでしょうか、お前の子供は預かったと言わんばかりだったのでしょうか。やはり一番イケないのは僕が一言も発しなかったことでしょう。子供に掴まれたときも、父親に恐怖の眼差しを向けられたときも僕は何も喋りませんでした。僕の発声器官は咄嗟には動かないのです。無言のまま立ち去った僕を父親はどう見たのでしょう。それは僕には推し量れません。ただ不審者情報が1件増えたとか増えてないとか。

ちなみに今でも懲りずにそのスーパーには行ってるんですけどね。だって近くて便利なんだもの。