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いまだにeスポーツという言葉に噛みつくダニ(私)

「eスポーツはスポーツなんですか?」
いやいや、何年前の話題だよという感じです。今ではもう立派に市民権を得ているというのに…。でもいまだ自分の中ではなんとも言い切れぬもどかしさが燻っているのです。そしてその正体を見極めたい、それがこの記事を書き始めた理由です。
 
 冒頭に戻って、「eスポーツはスポーツなんですか」という疑問。eスポーツという言葉が流行り始めた当時の第一にして最大の違和感でした。ここで勘違いはしてほしくないのですが、別に自分は今ここで、eスポーツはスポーツであるとかスポーツではないとか持論を展開したいわけではないんです。ただ、当時の「スポーツ」という言葉への異様にも見えた執着の話をしたいのです。なぜスポーツであることに拘るのか、そもそもどこからスポーツが出てきたのか、僕には全くわからなかったのです。単純にゲームの競技性を高めたいということなら、ネーミングセンスは別として呼び名はゲーム大会でもなんでもいいわけです。ですがeスポーツと呼びたい人たちの言い分を聞いても、eスポーツと呼びたいという結論ありきのこじつけにしか聞こえませんでした。(まるで他に好きな人ができた女性が彼氏と別れるために考えた口実のようでした)そして、いざ蓋を開けてみればなぜかスポーツウェアを着て腕組みをしているゲーマーが…。スポーツウェアは動きやすさと通気性、腕組みポーズは肉体的な強さを印象づけるもの。ゲームにおよそ関係なく、すべてがチグハグです。そんなスポーツのマネごとをして、結局のところ、eスポーツという名称はスポーツに対するコンプレックスの表れだったのか、と邪推してしまうのも無理からぬ話ではないでしょうか。
 個人的な話になりますが、自分はスポーツというものがからっきしできません。学年で一番運動音痴のやつ、それが私でした。そんな自分が、スポーツへのコンプレックスの匂いがするeスポーツという名称を熱烈に支持していたらどうでしょう、あまりに惨めに映りやしないでしょうか?
 そもそもに自分はスポーツへのコンプレックスはあれど、それもアイデンティティのうちと受け入れてきたのです。だから私はこのeスポーツという言葉が好きになれないのです。別に自分は運動ができなくても尊厳を保てているのですから、コンプレックスの発露に加担させないでくれと思ってしまうわけです。
 ですが今はもう、eスポーツという言葉にコンプレックスの影はほとんど感じませんし、eスポーツシーンのど真ん中にいる10代~20代前半の人たちはそんなこと気にかけていないでしょう。だからもう、このおじさんの拘りは聞き流してしまえばいい、それがこの記事の結論です。

「君たちはどう生きるか」初見感想

 


君たちはどう生きるか」を観て来たので、他の人の感想やらが目に入ってしまう前に、初見の新鮮な感想もとい考察を残して置きたいと思います。

ちなみに見たのは昨日なので、今この記事を書いている時点で既に記憶が曖昧な箇所があるかもしれませんが、ご容赦くださいまし。(書き終わる頃には一昨日になっていました)

 


まず、どういう物語の構造だったの?というお話ですが、以下のようなことだったと思います。

1. 不思議な力を持った石(=隕石)が宇宙から降ってくる

2. おおおじ様が石を発見し、その魅力に取り憑かれる

3. おおおじ様は石から力を貰い、「俺が考える最高の世界」を作り上げる

4. だが全然思い通りにならない。自分も死期が近づいている

5. 跡継ぎ募集中だが、石との契約で自分の子孫にしか継がせることができない

6. そこで青サギを使って子孫を石の世界に連れ込む

7. 眞人くんに目を付けるも、あえなく断られる

8. しかも乱入してきたハト王が石の積み木(=世界)を叩き斬る

9. 世界はぶっ壊れて、みんな元の世界に帰りましたとさ、ちゃんちゃん

 


これを頭に入れてお話を振り返るといろいろ合点がいくところがあります。

たとえば、青サギは覗き魔呼ばわりされている程、お屋敷の周りを彷徨いていたっぽいですが、それもこれもおおおじ様の子孫を見つけて塔に誘導するためだったこと(手段が憎たらしかったですが…)。他には新たな後継ぎの誕生が妨害されないよう、産屋に入ることが禁忌とされたこと、立ち入ろうとした眞人やヒミ様が石に攻撃されたことなど…。

 


特にこのお話の理解に重要そうなのが、「3. おおおじ様は石から力を貰い、「俺が考える最高の世界」を作り上げる」のように思います。

おおおじ様の「俺が考える最高の世界」とはどんな世界だったのか、そしてなぜ作ろうと思ったのかについて自分なりの考えを書いてみたいと思います。

おおおじ様が作りたかった世界はおそらく、悪意や残酷さのないおとぎ話のような世界だったのではと思っています。眞人くんと若キリ子さんが釣り上げた魚を買いに来ていた黒い影のような人たちが居たと思いますが、彼らはキリ子さん曰く殺生ができないそうです。それは彼らがおとぎ話の住人、つまり現実世界の残酷な食物連鎖を持ち込みたくなかったおおおじ様によって作られた、この世界の原住民だからなのではないかと思っています。この世界の原住民は殺生ができないように作られているのではないでしょうか。

 一方で人間は魚を、ペリカンはワラワラを、インコは人間を殺して食べる(or食べようとする)描写がありました。殺生できないんじゃなかったのかという話ですが、ここで、ヒミ様に焼かれ、死にかけていたペリカンの言葉がヒントになる気がします。いわく、彼らはこの世界に「持ち込まれた」のだそうです。であればあのインコたちも同様なのではないでしょうか。つまり人間、ペリカン、インコはすべて元の現実世界の住民なのです。(そうであると、エンディングで現実世界に出ていった彼らが私達に馴染みの鳥の姿になったのも納得がいきます)そんな彼らに殺生ができないというルールは通用しなかった、これがおおおじ様の誤算だったのではないかと思っています。もしかしたらペリカンやインコは元々この世界に色彩的な美しさをもたらすためだけに持ち込まれたのかもしれません。ですが飢えたペリカンはワラワラを食し、ワラワラを助けるためにヒミ様がペリカンを焼くことに。けれども全てのワラワラを助けることはできないので、多数を生かすために止む無く少数のワラワラを犠牲にする。あっという間におとぎ話とはかけ離れた残酷な世界の出来上がりです。ついでにインコも人間を食すし。

 おおじじ様もなんとかこの世界を維持しようとしていますが、石の積み木は今にも崩れそうでした。それは既に世界が地獄のように歪んでしまっているからだったのではないでしょうか。石の世界に入った眞人くんが若キリコさんと見た、(なんだか崖の上のポニョを彷彿とさせる)大量の船。それらを存在しない幻とキリコさんは形容しましたが、あれは同じようにそうして壊れてしまった、前の世界の残骸なんではないでしょうか。終盤の緑の丘に大量に転がっていた積み木(石)も、作っては壊れてしまった世界の数だけあるのでは、と自分は思いました。

 では、なぜ作った世界が悉くうまく行かないのか。それを考察する前に、なぜおおおじ様は「俺が考える最高の世界」を作りたかったのか、(自分の考察通りなら)なぜ悪意や残酷さのないおとぎ話のような世界を作りたかったのかに目を向けたいと思います。答えは単純に、現実世界の悪意や残酷さに打ちのめされたからではないでしょうか。なぜ世の中こうなっているのか、こうなってしまうのかという感情を抱いたことは自分も多々あります。今の世の中を見渡せば目を背けたくなることばかりです。誰かのエゴ・悪意で無辜の人々が不条理に殺される、不運な事故・病気で人が死ぬ、家畜が殺されるのに心を痛めながら、その肉をうまいうまいと言って自分が食べていることも。おおおじ様も同じようなことを感じ、それらのない世界を作りたかったのではないかと思います。現実に戻ろうとする眞人くんへの、「あの戦争で焼かれるだけの世界に戻るのか(意訳)」というセリフもその裏付けになりそうです。

 ですが眞人くんは自分にも悪意があるから、と後継者になるのを拒み、元の世界で生きていくと宣言しました。これは悪意のない世界に自分はふさわしくないと言うよりも、自分は元の残酷さや悪意、不条理のある世界で生きていくんだ、という前向きなものだったように思えました。

 これは現実の世界を生きている自分にとってなんだかエールを送られたような気がしました。自分も時には空想の世界に逃げ込みたくなるものですが、でも漫画やアニメの中の恋愛ではなく現実の恋愛をしたいですし、幸せな夢を見るよりも現実で幸せになりたいものです。結局のところ、自分は本当はいくら悪意に満ち、残酷だとしても現実の世界に生きていたいんです。ですからハト王によって空想の世界が壊され、現実世界に戻ってくるシークエンスはこの気持ちを代弁してくれたようで、僕にとって清々しいものでした。(清々しさで言えばシン・エヴァのラストに近いものを感じました) ではそんな世界でどう生きるのか。それは探りながら生きていくしかないんでしょうね、というのが僕の気持ちです。未だに模索中ですし。眞人くんはすぐ見つかったっぽく、そんな世界でどう生きるかを問われ、友達を作る、大切なものを作ると言っていました。

 


 ところで空想の世界で生きていくのも悪くないじゃないか、という向きもあるかもしれません。でもこの映画では、そんなしがらみのない空想の世界は作れないと言っているように僕には感じられました。生物あるところ、本能的なものに限らず、欲求を満たすために必然的に捕食関係・利害関係が生まれてしまう気がします。ペリカン達だけではなく、ワラワラや黒い影たちも結局魚の肉を必要としていましたし、残酷さのない優しい世界なんて本質的に作れないのかもしれません。昔、本映画にも出てきた小説「君たちはどう生きるか」を読んだことがあるのですが(もちろんうろ覚えなんですけど)、社会は数多の個が織り成していて、その個間の関係性について示唆的に語っていたような気がします。その関係性の中には悪意や優劣、捕食・被捕食などもあるでしょう。これら無数の個同士の関係性すべてを優しいものに染め上げようだなんて土台ムリな気がするのは僕だけでしょうか。けれどそれこそおおおじ様が望んでいたものであり、小説を読んだ眞人くんには響かなかったものなのだと、僕は思っています。

 


以上が映画を見ての僕の一番の感想です。もちろん記憶違いであったり、映画の意図とズレているところもあるでしょうが、そもそもそれを含めて感想というものなので、突っ込まないでくださいまし。

 


その他細々としたところの感想・疑問・考察です。

 


・アニメーションがすごい

今更ですけど、ジブリのアニメーションって躍動感がすごいですね。

なぜ他の日本のアニメではこのアニメ表現を見ないんだろう、とすこし疑問に思いながら鑑賞していました。

自分があまりアニメを見ないだけ?

 


・お父さんの性格

現代ならバッシング受けそうな父親です。男は力と金だ、と言わんばかり。
でも息子を思う気持ちは本物なので嫌いになれない感じです。
しかし、姉妹でいただくとは節操のない人でもあります。

 


・眞人くんはなぜ自分の頭を石で殴った?

正直、はじめはなんの独白も展開もないので意味が分からない、というか考えられる理由がたくさんあって分からなかったのですが、最後の最後でこの傷は悪意から付けたと言っていたので、おそらく喧嘩の傷をわざと重傷にして親あるいは学校レベルの大問題にしてケンカ相手を懲らしめてやろう、ということだったんではと思っています。はじめはズル休みのため?とか自分の不甲斐なさを戒めて?とか色々考えてましたけど。

 


・なぜ木刀は直っていた?

ストレスフルになった眞人くんが青サギに挑み、噛み砕かれた木刀。いつの間にか直ってましたけどあれはなぜなんでしょう。

自分は実はバアヤたちがこっそり直したんではないかと思っています。お屋敷の人たちは青サギや屋敷にまつわる不可思議な現象から坊っちゃんを遠ざけたかったがために、青サギとの出来事を夢だと思わせたかったんじゃないかと思ってます。

まぁ自分でも違う気がしていますが。だってもしそうなら新しいの買えばよくね?とか隠して元々なかったことにすればよくね?とか思いますし。

 


・かぜきりの七番?なぜそれが弱点?なぜ飛べなくなるの?

まじで分かりません。だれか教えてください。
あと、射られて空いた穴は傷をつけた本人に塞いでもらわないといけないって、なんでです?
優しい世界だから?自分でやったことは自分でごめんなさいしないといけないみたいな。

 

 

 

・石の世界にあった墓とはなにか。

「我ヲ学ブモノハ死ス」
物語の後半で回収されると思っていたんですが、一度出たきりそれ以降触れられず。結局なにも分かりませんでした…。
地下への入り口っぽいものの上に巨大な岩が乗っかている、みたいな建造物でした。
岩は終盤に緑の丘に浮いていた石に似ていたような…。なにか見落としている気がします。
死の扉の内側に入った眞人くんに若キリコさんがお祓いをしたり、後ろを振り返ってはいけないと言ったり、儀式めいたこともしていましたが、どうにも意味するところが分かりません、なんか千と千尋っぽいね、ということしか。

 


・ワラワラが上の世界に生まれ変わる?

これ実は嘘なんじゃないかと思っています。だって石の世界っておおおじ様が作り出したものであって、現実世界の自然の摂理に関わっているとは思えないんです。でも、魂っぽい見た目の生き物が天に上って転生するのって、なんかおとぎ話っぽくないですか?だからおおおじ様がそういう設定ということにしたんではないかと疑っています。というかむしろ、あれは石の世界が死後の世界だと思わせるミスリードなんではないかとすら思っています。

 


・バアヤたちの木彫りの人形

若干のホラー要素。眞人くんを見守っているらしいですが、なぜに父親の人形はないのでしょう…。
ラストを見るにキリコ(老)は木彫りの人形になっていたみたいですが、なぜに?
確かに若キリコと老キリコで二人いると困りますけど。

 


・木と石、火と水の対比

眞人くんが積み木(石)のことを冷たく、悪意があると言っていました。
ラストにはキリコ(老)の木彫人形と積み木(石)の破片を意味ありげに手にしていました。
木彫人形が見守ってくれる存在なら、石と対比してそれは温もりを象徴していそうです。
同様に水は冷たく、火は温かいです。ヒミ様や若キリコは火を操り、石の世界は一面海でした。
眞人くんの母親は火事で亡くなり、青サギによって石の世界に連れて行かれるときは水の中に引きずり込まれるような演出でした。
正直だからなんなのかということは見当付きませんが、火や木は生命・善意を、水や石は死・悪意を暗示していると捉えるのは安直ですかね。

 


・青サギはなにもの?

彼はかなり特殊な存在な気がします。現実世界にも石の世界にも他にあんなやつは居ません。
現実世界でも石の世界での記憶を持っていますし、現実世界に行ったからと言ってインコたちのように姿は変わりません。
そもそも生物としての構造が謎です。青サギの皮の中に人が入っているだけのように見えるくせに、青サギのように優雅に飛びます。何だこいつ。てかポスターのキリッとしたビジュアルはなんだったんだ。

 


宮崎駿の心

この物語、場合によってはフィクションから抜け出して現実世界に生きよう、という宮崎駿がフィクション作品を全否定したと捉えかねない気がします。おおおじ様 = 宮崎駿で、フィクションにけじめをつけたといったようにも。
でも、正直そんなことは自分には知りようもありません。作品の感想というのは、自分自身の中にあるものなので好き勝手に語れますけど、その作品を通して作者がなにを考えているだとか、そんなことは宮崎駿のことをロクに知りもしない赤の他人である自分が推し量るようなことではないと思っています。彼はこう考えている、などと推測であってっも語るのはむしろおこがましいくらいです。ので知りません。

 


・都市伝説

???「実はこの物語、不可思議な現象が起きだしたのって眞人くんが自分の頭を石でかち割ってからなんだよね。つまりこの後起きた出来事は全部彼の妄想ってこと。じゃなかったらわざわざ石で自分殴る描写なんていらないよね? 信じるか信じないかは、あなた次第。」

 


以上「君たちはどう生きるか」の初見感想でした。

最近AIについて思っていることたち

・私のバックグラウンド

 自分は大学院時代にCNNをすこし触っていた程度で、しかもHW寄りだったので、そんなにAIアルゴリズムのトレンドをがつがつ追っていたわけではないです。(これだけでこの記事の質が知れますね)

 社会人生活一年経って思うんですよ。初めて触れる「仕事」に対する新鮮さもなくなり、なんか面白くないな、と。なにが足りないんだろうと思うと、やっぱ最先端技術に触れられていないからだ!と思ったわけです。かといって、仕事で自分に裁量なんてほぼほぼないものですから、これはもう趣味で触れるしかねえぞ、となりました。ここ一年は ChatGPT やら StableDiffusion やらAIサービスが花咲きましたので、やはりここはAIでしょう。そう思って色々調べて思ったことがこれから書かれる内容になります。

 

1. 夢がねぇ!

 まず最初にこれを思いました。上にも上げたChatGPTやらなんやらは、結局のところ大量の計算リソースにマンパワー、学習データを持っている大企業でないと為し得ず、個人の入る余地0じゃないか、と。

(だから Google Colab が出てきたんですかね。なにができるのかよく知りはしないんですけど…。)

 なればいっそ、もっと学習効率の良いNNを研究するのもありかなと思いました。ぶっちゃけ応用研究より基礎研究のほうが魅力的だし。(NN自体が応用研究とか言わないで) 最近は "Dual sampling neural network: Learning without explicit optimization" を勉強しています。

https://journals.aps.org/prresearch/pdf/10.1103/PhysRevResearch.4.043051

理解して自分で実装できればいいんだけど、時間が捻出できないんですよね。仕事あるし、ゲームしたいし。

 

2. お前をスカイネットにさせない方法を思いついた

 まぁ、大げさに書きました。スカイネットとはご存知ターミネーターに出てくる人工知能です。AIがシンギュラリティ起こして、人類を滅したり、どうのこうのしてやるぞ!、というのはよくあるプロットです(よね?)。でもですよ、彼らがまだ人類の見つけていない物理法則、技術を見つけるとして、結局のところ外部の情報、実験データが必要になるじゃないですか。だって発見ってのは仮説と検証がペアなわけですから。たとえば軽い物体も重い物体も落ちる速度は一緒だと、万有引力の法則から仮説を立てたとしても、実際にピサの斜塔から落としてみないことにはその仮説が合ってるかどうかなんて分からないはずです。

 だったらば、外部のデータをAIに渡してやらなければ、AIはいつまでたっても仮説を検証できずにそれ以上論理を発展させられなくならないですか。それか間違った仮説をもとに更に仮説を立てていって妄想の世界に飛び込んでいくかですよ。さながら陰謀○者並みの荒唐無稽な論理しか生み出さない産廃といったところ?

 AIをスカイネットにしないためには、AIくんには外部との接触を物理的に許可してやらないことです。そうすれば彼は現実が見えず、コンピュータの中で妄想するだけの機械になります。人間が必要なときだけデータを与えてやれば良いのです。

 え、データを与える人間がAIにソーシャルエンジニアリングされたらどうするのかって?そりゃ人類滅亡ですよ。

 

3. 今のAIってどうせ論理的思考できないんでしょ?あれ、俺もできなくね?

 PixivにAI生成の(えっちな)絵がたくさん転がってますよね。でもよく見ると指があらぬ方向向いてたり、脚が三本あったりすると思うんです。他にもChatGPTはちょっとした計算式すらまともに答えられなかったり。結局のところそれっぽい画像や文章を吐き出してるだけで、あなた論理的思考ができてないんですよね? そんなんで人工知能を名乗ろうだなんておこがましいぞ!お前なんてドラえもんにもジャービスにもなれやしないやい!というのが僕のDNNに対する態度でした。けれど、ちょっとこれを改めようかと思いました。なんかの記事で読んだんですけど、GitHubのコードを学習させたChatGPT はある学習量を越えると四則演算を全く間違えなくなったらしいんですね。いやいや別にこれだってそれっぽい出力結果出してるの変わらないよ、なんかいい感じに学習できただけでしょって言えてしまいます。だって論理的思考ができないのは相変わらずですもの。たしかに自分もDNNの中に加算器が作られたとは思いません。でもそれって人間もそうじゃね?と思ったのです。だってですよ、もし人間が本当にノイマンコンピュータのように論理に従うのだったら、計算のケアレスミスなんてしないですもの。人間も真の意味での論理的思考なんて実はできていなくて、それっぽく論理展開しているだけなんじゃないですか、と思ったわけです。考えてほしいんです、もし人間の脳が論理的思考できるなら、なんで数学の場合分けを検討漏れするんですか、なんで論理の塊たる学問の勉強に時間がかかるんですか、なんで論理的じゃない文章が生まれるんですか。

 もし人間の脳が論理的なら、プログラミングのように超超超厳密な情報が必要ですけど、周囲の自然環境なんて流動的ですし、そんなんじゃ人間身動きが取れなくなっちゃうじゃないですか。そう考えると人間は論理的思考できない、っての現実味帯びないですか?でもって論理的思考っぽいことをするには学習が必要…。なんかそれっぽい!

え、こんなんとっくにコスられているネタだっって?やめてよ言うの。

 

4. 時間がねぇ!

上で書いたネタとかをもとになんかDNNの勉強やら研究やらしてみたいな、と思ったんです。たとえば学習したいことをピンポイントで学習させる方法とか。だって今の学習法が非効率なのは自明ですもの。

でも時間ないし、他にやりたいこと多いし、体力・気力は無限じゃないしで…。いや、やってみたいんだけどね?でもね?

… …。

うーん、これが人間!

 

以上です、はい。

 

 

今更書く「JOKER」感想

 実はJOKERを観たのは二年近く前なのですが、今更感想を書こうかと思います。

 僕はあまり積極的に他の人の感想は見ないのですが、この作品においては知名度も高いですし、目に触れる機会が多いです。ただ、その感想が自分の抱いたものとは少し違うので、もし僕の見たような感想がネット上で大勢なら少し、「それは僕と解釈違いです」と言いたくなったのが今更に感想を書く動機です。記憶が古く、細かい描写は全然憶えていないので、最も印象に残ったテーマについてだけ書きたいと思います。それは「JOKERはどうして生まれたか」です。

 

 一言で言ってしまえば、彼を取り巻く境遇・人生すべてが彼をJOKERにさせた、が僕の感想です。ほんの少し何かが違えば、たとえば、もしカウンセリングがあと一日続いていたら、彼はJOKERにならなかったと思っています。最悪な運命の歯車がガッチリと噛み合ってしまったがために彼はJOKERになってしまったのだと、僕はそんな風に思いました。誰かが彼をJOKERにしたかっただとか、彼自身が悪い人間になってやろうと思っただとか、そのような作為的なものはそこには一切存在しません。言ってしまえば不運な悲劇です。竜巻被害なんかかにも似ているところがあります。特定の何かや誰かが竜巻を発生させたということはなく、地球規模のスケールを持つ複雑な天候運動の結果として、たまたまその箇所に竜巻が発生する条件が揃ってしまった。それと同じように、彼の人生を含め、社会という巨大な人間模様の中で生まれた様々な要因が複雑に折り重なり奇跡的に発生してしまったのが今作のJOKERだと思うのです。

 出来事なんていうのはすべて複雑な要因の組み合わせなんだから、なにを当たり前の事を言っているんだと言われてしまえばそうなのですが、ただこの場合、その稀有さ、たどり着いてしまった地点の悲劇さがこの物語を特別にしているのだと思います。加えて、この映画はまさに彼が転がり落ちることとなったそれら主要な要因を過不足なく丁寧に描き、観賞者に説得力をもって迫ってきます。映画という二時間余りの尺の中では描写できることも限定され、往々にして登場人物の行動や心の動きが一足飛びに飛躍してる気がして、ついていけない時もあるものです。その度に、これはフィクションだから、と自分に言い聞かせ、キャラクターの心情の変化を「そういうもの」として受け入れます。ですが本作でそのような事はありませんでした。彼が JOKER になってしまった、その悲劇的な物語をなんの障壁もなくすんなりと受け入れることができてしまったのです。フィクションであるはずなのに、あたかも現実で痛ましい事件が起こるべくして起こってしまったかのような、そんな無情さや悲痛さを僕の心は感じてしまいました。(本作が傑作として評価された理由はそこにあるのかなと、個人的には思っています。)

 

 話は少し戻って、この悲劇の主要因となってしまったものは大きく2つあるかと思っています。一つは彼の抱える脳の疾患、もう一つは弱者を虐げる社会です。もちろん、これら2つの要因が揃えば、必ずJOKERになるだとか、そういうことではありません。先程も述べたように、その他諸々の複雑な因果がキレイに連なわなければならないですから。(僕が見た他の感想では、誰でもJOKERになり得るといった感じだったのですが、僕はそうは思いません)

 

 さて、まずひとつ目の彼の持つ疾患について書こうと思うのですが、僕は精神科医でもなんでもないので、今から書くことは僕の受け取った印象でしかないことを前置きしておきます。決してそれ以上の解釈はしないでください。というか、本当に記憶がおぼろげなので当時抱いた印象もあまり覚えておらず、こんな感じだったような気がする、で書いてます。そんなんで良ければ読んでください。

 

 彼、アーサーの行動を振り返ると、彼の頭の中には他人がいない、というより、他人も自分と同じようにモノを考え、それぞれの人生を生きていると認識できていない、そう認識するための共感性が欠如しているのではないかと思いました。彼の世界は自分が考えていることがすべてで、どこまで行っても自分本位。頭の中に他人がいないのですからそれも当然です。彼にとっての他人とはあくまで自身の人生という一つの劇に現れる舞台装置のような存在に見えているのではないでしょうか。

 ですから彼の劇 = 生活の中で、彼のしたい行動にアドバイスや反対をしてきたり、あるいはケチをつけてくるような人間のことは邪魔に思っていたことでしょう。自分の思うままに振る舞いたいのが彼の人生なわけですから。ですが、世の中というのは他人どうしが持ちつ持たれつ折り合いをつけながら成立させているものですので、彼の自分本位な望みだけが優先されるということは全くありません。そのため、これまでにも彼の自己実現にとって邪魔だと思うようなものは数多くあり、望み通りにいかないことが多々あっただろうと思います。けれど、相手の事情や心情を推し量ることができない、推し量るという考えすらでてこないために、彼にはその原因が分かりません。なぜ自分の人生は思い通りにならないのか、なぜいつも邪魔されるのかという鬱憤だけ溜め込んでいたのではないかと想像します。

 たとえば、彼は意図せず笑ってしまう障がいを抱えていました。症状が出た際には障がいカード(言い方が正しいか分かりません)を差し出すことでその場を収めていました。一見すると世間とうまく付き合えているようにも見えます。ですが、彼がカードを差し出すのはそうすれば相手が怪訝な表情をしなくなるから、という理由でだけであって相手が同情してくれるから、ということには気づいていないのではと思います。親か医者あるいはカウンセラーに症状が出た場合はこれを差し出しなさいと言われただけなのだと想像します。カードについても彼自身はあくまで自分の望まないこと(=怪訝な表情をされる)をやめさせるためのツールとしてしか認識できていないのではないでしょうか。

 

 続いて、2つ目の要因についてです。先程弱者を虐げる社会と書きましたが、言ってしまえばゴッサムシティのことです。劇中でも描かれていたようにリンチや暴力、嘲笑などの蔑みが溢れる街です。アーサーも暴行を加えられました。そして、ひょんなことから銃を手に入れてしまった彼は、それまでの鬱憤を晴らすかのように自分をいたぶってくる相手を銃殺してしまいました。ここが分水嶺でした。彼は銃の持つ絶大的な力を知りました。それも自分を押し通す最強の手段として。非力でなぜだか思い通りにならなかった人生、思い通りにする方法を知ってしまったのです。彼にとって銃は障がいカードと同じく、彼自身の脳内だけで描かれた彼の理想的な日々を実現するために、望まぬものを排除するツールとなりました。他人に共感できない、つまり善悪の境界線すら自分本位になってしまう彼です、銃による殺人で罪悪感を抱くどころか、むしろこの殺人が弱者が声を上げたと勝手に囃し立てられ、英雄視されたことに満足感すら得ています。彼が抱いていた理想の人生、コメディアン、ひいては称賛されたいといった欲求は最悪の形で実現してしまいました。

 もし銃も暴力もない社会だったら、もし安全・安心な社会で、彼に適切なサポートもあったならば、と考えるとゴッサムシティがこの悲劇の一端を担っていたことは否定できないでしょう。

 

 以上の2つの主要因、そしてその他諸々の要因が奇跡的に噛み合ってJOKERは生まれてしまいました。自己陶酔や自己演出で非行に走ったり、犯罪行為を働いたりと、意図的に嫌悪すべき選択をした人種とはそこが違います。彼には善悪の概念などなく、彼のしたいようにしているだけです。この映画が見事に描ききったJOKERはまさに本物の悪だなぁ、と感じました。まぁ、そうなった経緯はどうあれ、犯罪行為を働いた時点でどっちも悪者のクソ野郎なことに変わりはないですが。

 

 

 今回久々にこの映画を振り返ってみて、またいつか観直してみたいなと思いました。実はあまりに記憶が曖昧だったのでWilkipediaのあらすじを見てみたのですが、どうにも上に長々と書いた感想は映画の前半部、アーサーが暴漢を射殺したところまでのもので、後半の展開のことは全然書いていない、というか記憶に残っていませんでした。ですから、改めて観たら全然違う感想を抱くかもしれないです(笑)。その時はまた感想記事を書くかもしれません。以上です。