JOKER2 初見感想

 噂のJOKER2見てきました。なんでも賛否両論だとか。
 結論から先に言うと僕の感想としては、とても満足でした。前の日に前作のJOKERを見返したのですが、本作はまさにその血を受け継いだ正当続編のように思いました。むしろこの2つで一つの物語と言ってもいいくらい。前作はJOKERが誕生したところで終わり、DCを知ってる身としては前日譚的な話として楽しめましたが、それだけでは一つの物語としては完結してなかったんです。前作ラストが中途半端だったと言いたいわけではなく、あれはあれでこの先DCで描かれるようなJOKERに繋がっていくんだな、と想像できる終わりで良かったですし。けれど、今作はDCというコンテクストから離れ、尻切れトンボであったアーサーという一人の男の物語の続きを描き切りました。おそらくここが賛否両論ポイントかな、と思っていて前作ラストからいわゆるDCコミックや映画に出てくる悪のカリスマとしての活躍を期待していた人たちはがっかりしたのだと思います。
 さて、本編の感想ですが見ていてとても可哀想でした。だって誰もアーサーのことを見ていないのだから。弁護士さんはアーサーが二重人格であると疑わず、ハーレイやJOKERのシンパは彼のJOKERとしての側面しか見ていません。考えてみれば最初のアニメーション(おそらくあの世界で制作されたものでしょう)もアーサーとその影、とまるで二重人格を示唆する内容でした。アーサーの中にJOKERはおらず、周りが彼の行動を勝手に解釈してJOKERとして祭り上げていただけにすぎないのに。
 (前作からの話ですが、)アーサーの行動原理は子どものように健気なもので、みんなに自分を見てほしいのです。だから注目されている妄想をするし、注目されてる人の真似をするんです。でもうまくいかなくて苦しんでるのです。それどころか虐げられるばかり。原因は彼の精神障害と腐ったゴッサムシティにあるのですが、彼にはそれがわかりません。そんなストレスが彼を最初の殺人に導きました。そうして初めて自分の人生が思い通りになったのです。(ちなみに彼は思い通りになってハッピーな気持ちになるとよく踊ったり、タバコを吸ったりします。こういう振る舞いもTVの人気者に影響されたのかも?と思ったり)
 何が言いたいかというと、すべての残虐な行動はアーサーとしての地続きの行動で、JOKERなんてものは最初からいないんです。それらの行為をすべてJOKERという悪の一面がなしたことだと周囲が勝手に思い込み、アーサー自身の苦悩には誰も見向きもしませんでした。映画冒頭で彼がずっと不機嫌そうにしていたのもそのせいじゃないでしょうか。弁護士を筆頭に、この人たちは自分の話を一つも聞いてくれない、と。
 そこで出会ったのが、リーことハーレイでした。彼女は身の上に共感するフリをしてアーサーに近づきます。自分のことを見てくれる女性。アーサーも男です。前作からもノートにヌード写真貼ったりと随所で性欲の影がちらついていましたし。女性と懇意になりたいという思いが、ようやっと叶ったんじゃないでしょうか。ここからのアーサーは歌を歌ったり、だいぶハッピー状態でしたね。しかし、ハーレイも結局JOKERしか見ていませんでした。想像に出てくるアーサーはピエロ姿でしたし、コトを致すときもピエロのメイクをさせたり。
 その後も色々ありましたが、アーサーにとって致命的だったのは元隣人からの証言じゃないでしょうか。彼のコメディアンにになりたい、ひいては注目されたい、という願望の源になっていたものが母親に刷り込まれたものだったのです。彼の今までの人生がひっくり返されたと言っていいでしょう。一体今までなにをしてきたのか。なんの苦しみだったのか。彼は本当の意味で滑稽な道化だったのです。
 彼はふっきれたのか、次の裁判からはJOKERのメイクをして臨みました。もう道化=JOKERとして生きようとしたのかもしれません。道化のようにTVドラマで見るような弁護士の振る舞いを彼は一生懸命やるわけです。自分で自分を酔わせているみたいに。けれど現れた証人、ゲイリーは「僕を笑わなかったのは君だけ」と言いました。彼だけはアーサーを見ていたのです。
 留置所(?)にもどった彼はメイクを剥がされ、服を脱がされリンチを喰らいます。偉くなったつもりか?と彼に冷や水を食らわせるわけです。アーサーがJOKERになりきろうとした初めての自己陶酔はこれで完全に打ちのめされます。メイクをしているとJOKERに見えますが、中身は変わらず哀れなアーサー。最初からJOKERなんていないんです。
 その後、ハービー・デントがついでに顔を焼かれるファンサービスをしたり、ハーレイにも見捨てられたりしてのラストシーン。すっかり抜け殻状態となったアーサーに、魔の手が忍び寄ります。結局彼は自分を勝手にJOKERとして見てきた相手に殺されてしまいます。最後の彼の妄想。子どもを持ちたい、だったのがやはり彼が普通の人間だったと思い知らせてきます(「山を作る」も多分、子どものことだったんでしょうし)。彼の死に顔がアーサーであったことが救いです。

 誰かに見られたい人生だったのにそれすら偽りで、あげく一方的な期待をそそがれ、失望されて殺される。これを可哀想と言わずしてなんと呼べばいいのか。最後の面会相手がゲイリーだったことを望んでやまない、そんな終わり方でした。

 全体的にざっと振り返ってみましたが、先にも述べた通り僕には大変満足な映画でした。前作と変わらず丁寧な心理描写でどんどん絶望に落としてきます。だからこそ一点気になったのがラストの唐突さでした。まぁ、ラストは殺人者の落とし所として殺されるだろうなと思ってましたし、時々意味ありげに映されるこいつに殺されんのかな、とも思っていましたが、あまりに急でした。丁寧な描写が売りなんだからこの犯人のバックグラウンドも描いてほしかったです。ただのサイコパスってのはちょっと、ね。
 逆に言えば、それくらいしか粗は見つからなかったのでここまで賛否両論なのに驚きです。みんなDCのJOKERが見たかったんですかね?噂程度にそういう映画じゃないと事前に聞いていたので、自分が心構えできていただけでしょうか?
 なにはともあれ、ここ最近見た映画の中では一番満足度が高かったです。

(そういえば、Xでジョーカーの格好して映画見に行ってる人見かけたけど、リンチシーンはどんな気持ちで見ていたんだろう…、と気になったり。)

 

追記:

 以上は見た初日に勢いで書いたのでいくつか抜けてたのを補足します。アーサーが真に欲しかったのは愛情かなと思ってます。恋人を求めるのも、誰かに見てもらいたいのも、それが発露した形に過ぎないかなと。母親からは愛されているかと思ったけれど、それが裏切られたのが、前作での殺人だったと考えます。今作でも愛情は得られず、子どもも得られず死んでしまいましたが。

 もう一点。前作EndからDCコミックスのJOKERにつながるのか?という話。冒頭ではそういう想像もできるよね、と書きましたが、実のところあまりスムーズに繋がるように思えませんでした。かたや知的で人の心を抉るのが好きな悪、かたや自分の衝動的行動が勝手に持て囃されただけの鬨の人。どう考えても連続的に繋がりません。だからこそ、今作がDCコミックスのJOKERを描かなかったのは至極当然のことだと思うのです。 

 現代社会への不満の代弁者という視点で、その2つは一緒じゃないのかと思う向きがあるかもしれませんが、それはあくまでアーサーを祭り上げた人々と同じ視点でしかないように思います。アーサーという男の物語を見た時、不満の代弁者というのは彼がJOKERとなるためのただの舞台装置に過ぎず、彼の本質を表す言葉ではないのです。そこがDCコミックスのJOKERと根本的に食い違っており、すでに前作の時点からアーサーがJOKERではないと分かるように思うのです。