今更書く「JOKER」感想

 実はJOKERを観たのは二年近く前なのですが、今更感想を書こうかと思います。

 僕はあまり積極的に他の人の感想は見ないのですが、この作品においては知名度も高いですし、目に触れる機会が多いです。ただ、その感想が自分の抱いたものとは少し違うので、もし僕の見たような感想がネット上で大勢なら少し、「それは僕と解釈違いです」と言いたくなったのが今更に感想を書く動機です。記憶が古く、細かい描写は全然憶えていないので、最も印象に残ったテーマについてだけ書きたいと思います。それは「JOKERはどうして生まれたか」です。

 

 一言で言ってしまえば、彼を取り巻く境遇・人生すべてが彼をJOKERにさせた、が僕の感想です。ほんの少し何かが違えば、たとえば、もしカウンセリングがあと一日続いていたら、彼はJOKERにならなかったと思っています。最悪な運命の歯車がガッチリと噛み合ってしまったがために彼はJOKERになってしまったのだと、僕はそんな風に思いました。誰かが彼をJOKERにしたかっただとか、彼自身が悪い人間になってやろうと思っただとか、そのような作為的なものはそこには一切存在しません。言ってしまえば不運な悲劇です。竜巻被害なんかかにも似ているところがあります。特定の何かや誰かが竜巻を発生させたということはなく、地球規模のスケールを持つ複雑な天候運動の結果として、たまたまその箇所に竜巻が発生する条件が揃ってしまった。それと同じように、彼の人生を含め、社会という巨大な人間模様の中で生まれた様々な要因が複雑に折り重なり奇跡的に発生してしまったのが今作のJOKERだと思うのです。

 出来事なんていうのはすべて複雑な要因の組み合わせなんだから、なにを当たり前の事を言っているんだと言われてしまえばそうなのですが、ただこの場合、その稀有さ、たどり着いてしまった地点の悲劇さがこの物語を特別にしているのだと思います。加えて、この映画はまさに彼が転がり落ちることとなったそれら主要な要因を過不足なく丁寧に描き、観賞者に説得力をもって迫ってきます。映画という二時間余りの尺の中では描写できることも限定され、往々にして登場人物の行動や心の動きが一足飛びに飛躍してる気がして、ついていけない時もあるものです。その度に、これはフィクションだから、と自分に言い聞かせ、キャラクターの心情の変化を「そういうもの」として受け入れます。ですが本作でそのような事はありませんでした。彼が JOKER になってしまった、その悲劇的な物語をなんの障壁もなくすんなりと受け入れることができてしまったのです。フィクションであるはずなのに、あたかも現実で痛ましい事件が起こるべくして起こってしまったかのような、そんな無情さや悲痛さを僕の心は感じてしまいました。(本作が傑作として評価された理由はそこにあるのかなと、個人的には思っています。)

 

 話は少し戻って、この悲劇の主要因となってしまったものは大きく2つあるかと思っています。一つは彼の抱える脳の疾患、もう一つは弱者を虐げる社会です。もちろん、これら2つの要因が揃えば、必ずJOKERになるだとか、そういうことではありません。先程も述べたように、その他諸々の複雑な因果がキレイに連なわなければならないですから。(僕が見た他の感想では、誰でもJOKERになり得るといった感じだったのですが、僕はそうは思いません)

 

 さて、まずひとつ目の彼の持つ疾患について書こうと思うのですが、僕は精神科医でもなんでもないので、今から書くことは僕の受け取った印象でしかないことを前置きしておきます。決してそれ以上の解釈はしないでください。というか、本当に記憶がおぼろげなので当時抱いた印象もあまり覚えておらず、こんな感じだったような気がする、で書いてます。そんなんで良ければ読んでください。

 

 彼、アーサーの行動を振り返ると、彼の頭の中には他人がいない、というより、他人も自分と同じようにモノを考え、それぞれの人生を生きていると認識できていない、そう認識するための共感性が欠如しているのではないかと思いました。彼の世界は自分が考えていることがすべてで、どこまで行っても自分本位。頭の中に他人がいないのですからそれも当然です。彼にとっての他人とはあくまで自身の人生という一つの劇に現れる舞台装置のような存在に見えているのではないでしょうか。

 ですから彼の劇 = 生活の中で、彼のしたい行動にアドバイスや反対をしてきたり、あるいはケチをつけてくるような人間のことは邪魔に思っていたことでしょう。自分の思うままに振る舞いたいのが彼の人生なわけですから。ですが、世の中というのは他人どうしが持ちつ持たれつ折り合いをつけながら成立させているものですので、彼の自分本位な望みだけが優先されるということは全くありません。そのため、これまでにも彼の自己実現にとって邪魔だと思うようなものは数多くあり、望み通りにいかないことが多々あっただろうと思います。けれど、相手の事情や心情を推し量ることができない、推し量るという考えすらでてこないために、彼にはその原因が分かりません。なぜ自分の人生は思い通りにならないのか、なぜいつも邪魔されるのかという鬱憤だけ溜め込んでいたのではないかと想像します。

 たとえば、彼は意図せず笑ってしまう障がいを抱えていました。症状が出た際には障がいカード(言い方が正しいか分かりません)を差し出すことでその場を収めていました。一見すると世間とうまく付き合えているようにも見えます。ですが、彼がカードを差し出すのはそうすれば相手が怪訝な表情をしなくなるから、という理由でだけであって相手が同情してくれるから、ということには気づいていないのではと思います。親か医者あるいはカウンセラーに症状が出た場合はこれを差し出しなさいと言われただけなのだと想像します。カードについても彼自身はあくまで自分の望まないこと(=怪訝な表情をされる)をやめさせるためのツールとしてしか認識できていないのではないでしょうか。

 

 続いて、2つ目の要因についてです。先程弱者を虐げる社会と書きましたが、言ってしまえばゴッサムシティのことです。劇中でも描かれていたようにリンチや暴力、嘲笑などの蔑みが溢れる街です。アーサーも暴行を加えられました。そして、ひょんなことから銃を手に入れてしまった彼は、それまでの鬱憤を晴らすかのように自分をいたぶってくる相手を銃殺してしまいました。ここが分水嶺でした。彼は銃の持つ絶大的な力を知りました。それも自分を押し通す最強の手段として。非力でなぜだか思い通りにならなかった人生、思い通りにする方法を知ってしまったのです。彼にとって銃は障がいカードと同じく、彼自身の脳内だけで描かれた彼の理想的な日々を実現するために、望まぬものを排除するツールとなりました。他人に共感できない、つまり善悪の境界線すら自分本位になってしまう彼です、銃による殺人で罪悪感を抱くどころか、むしろこの殺人が弱者が声を上げたと勝手に囃し立てられ、英雄視されたことに満足感すら得ています。彼が抱いていた理想の人生、コメディアン、ひいては称賛されたいといった欲求は最悪の形で実現してしまいました。

 もし銃も暴力もない社会だったら、もし安全・安心な社会で、彼に適切なサポートもあったならば、と考えるとゴッサムシティがこの悲劇の一端を担っていたことは否定できないでしょう。

 

 以上の2つの主要因、そしてその他諸々の要因が奇跡的に噛み合ってJOKERは生まれてしまいました。自己陶酔や自己演出で非行に走ったり、犯罪行為を働いたりと、意図的に嫌悪すべき選択をした人種とはそこが違います。彼には善悪の概念などなく、彼のしたいようにしているだけです。この映画が見事に描ききったJOKERはまさに本物の悪だなぁ、と感じました。まぁ、そうなった経緯はどうあれ、犯罪行為を働いた時点でどっちも悪者のクソ野郎なことに変わりはないですが。

 

 

 今回久々にこの映画を振り返ってみて、またいつか観直してみたいなと思いました。実はあまりに記憶が曖昧だったのでWilkipediaのあらすじを見てみたのですが、どうにも上に長々と書いた感想は映画の前半部、アーサーが暴漢を射殺したところまでのもので、後半の展開のことは全然書いていない、というか記憶に残っていませんでした。ですから、改めて観たら全然違う感想を抱くかもしれないです(笑)。その時はまた感想記事を書くかもしれません。以上です。