2022年に消費したコンテンツリスト

映画

素晴らしき哉、人生!

アバター

ブラックアダム

イエスマン “YES”は人生のパスワード

アンチャーテッド

RRR

すずめの戸締まり

ブラック・パンサー ワカンダフォーエバ

バズ・ライトイヤー

モンスターハンター

グリーンブック

四畳半タイムマシンブルース

NOPE

ワンピース FILM:RED

ミュウツーの逆襲 EVOLUTION

チップとデールの大作戦 レスキューレンジャーズ

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

ソー:ラブ & サンダー

ドラゴンボール超 ブロリー

ミスト

トップガン マーヴェリック

シン・ウルトラマン

トップガン

泣きたい私は猫をかぶる

ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス

ニンジャバットマン

名探偵コナン ハロウィンの花嫁

ドクター・ストレンジ

ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

モービウス

Coda あいのうた

THE BATMAN

ドント・ルック・アップ

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

 

ドラマ

ウェアウルフ・バイ・ナイト

シー・ハルク

Ms. マーベル

オビ=ワン

ムーンナイト

THE BOOK OF BOBBA FETT

 

アニメ

BLEACH 千年血戦篇

チェンソーマン

X-MEN '97

四畳半神話体系

進撃の巨人

ザ・カップヘッド・ショウ!

鬼滅の刃 遊郭

 

 

小説

すずめの戸締まり

夏への扉

女のいない男たち

息吹

四畳半タイムマシーン・ブルース

 

ゲーム

ファイアーエムブレム 風花雪月

ドラゴンクエスト トレジャーズ

Hollow Knight (絶対的なるラディアンス会敵まで)

Cuphead the Last Delicious Course

Marvel's Guradians of the Galaxy

モンスターハンター ライズ サンブレイク

Control

スパイダーマン:マイルズ・モラレス

Astro's Playroom

There Is No Game: Wrong Dimension

Fall Guys

TETRIS 99

7 days to end with you

ファイナルファンタジー7

 

漫画

ハンター×ハンター

Thor: Goddess of Thunder

テック・オン・アベンジャーズ

House of X / Powers of X

Avengers Disassembled

天体戦士サンレッド

その他諸々

すずめの戸締まり 初見感想

 先日、新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」を観て来ました。

 


 入場特典として「新海誠本」なるものが配られたのですが、パラパラとめくってみた感じどうやらこの映画の骨子が新海誠監督の言葉で書かれているみたいなんです。すごい読み甲斐がありそうです。ありそうなんですが、映画を観終わった直後、自分の感想もまとまっていない内にこれを読んでしまってもいいのだろうかと僕は思ったわけです。だってほぼ答えじゃないですか。いや、感想に正解も間違いもないとは思っています。むしろ自身が受け取ったものだけが正解だとすら思っています。でも感想というのは割とあとから加工されてしまいがちでして、他人の感想を聞いているうちにいつの間にやら最初に抱いた生の感想とは様変わりしていたりするものです。まして観終わった直後のほやほやの感想に監督の解説なんて混ざりようものなら、できあがったものはもはや僕の感想ではなくなるでしょう。この記事の趣旨はそこにあります。要は「新海誠本」を読む前に生の感想(&考察)を残して置きたいなと思ったのです。

 


 感想と言いましても、そんなのあまり書かないものですから書き出しがわかりません。とりあえず言えることはこの映画もまた「君の名は。」、「天気の子」に引き続きラブコメ×天災でした。大雑把なストーリーライン、つまりはじめに恋愛してから天災で片方が犠牲になり、それを救い出す、というのも同じです。もはや王道です。しかし中身は大きく違います。今回の天災は地震です。詳細は省きますが、地震は各地の廃墟にある後戸からはみだしてきた巨大なミミズの仕業なんだそうです。そのミミズが出てこないよう後ろ戸を閉めるのが閉じ師のお仕事。閉じる際のお作法としては、①まずそこが廃墟になる前の人々の暮らしを思い、②次に祝詞を唱え、③扉に鍵を掛ける。一体この儀式はなんなんでしょう。それを紐解くにはまず新海誠監督の哲学から考える必要があるんじゃないかと思います。

 


 大自然において人間はあまりに非力な存在であること。これは今までの作品においても共通のテーマだったと思います。彗星落下に異常気象、地震大自然の活動に人間は翻弄されるだけの存在です。人間には災害をコントロールすることも自然の摂理を変えることも、時間の流れを止めることも出来ません。普段の暮らしでは社会に揉まれて忘れてしまいますが、人間は広大な宇宙のほんの片隅にある地球の表面にへばりついてるだけに過ぎません。この世界の主役は人間ではなく、大自然なのです。自然には抗えません。普段はうまく自然と付き合えているのですが、大災害が起きたときや身近な死に触れたとき大自然への畏敬を思い出します。そこにあるのは理不尽だと糾弾しても空しい、ただただ非情な世界です。この考えは新海誠作品に通底するものではないでしょうか。

 しかし、この世は残酷だ、で終わらせないのが新海誠作品の良いところです。そんな残酷なだけの世なら生きていたいと思わないですから。それでは何が私たちを生かしているのか。それは大真面目に愛です。宗教にかぶれたわけではないです。愛です。恋愛が最たる例でしょうが、家族愛でも友愛でもなんならゲーム愛でもいいと思います。それのために一年でも一日でも一時でも長く生きていたいと思わせてくれるものです。

 ですが、上に述べたように大自然の強大さを前に愛ができることはありません。いとも簡単に愛するものは奪われ、二度と帰ってきません。新海誠作品の真髄とは、しかし、愛が大自然に少し抗い奇跡を見せてくれるところだと思っています。(RADWINPISの楽曲もこの自然の摂理vs愛に主眼を置いてるものが多い気がします。)ややもするとただのふわふわしたファンタジーになってしまいそうですが、そこはリアルに寄せた背景描写、人間模様で地に足付いたものにしてくれます。そうした奇跡は大災害で被災した人、自分含め実際に被災したわけでなくても大震災のニュースなどで無力さを味わった人々に希望を持たせてくれるのです。

 


 それを踏まえての今回の映画です。今作のテーマは災害の記憶との向き合い方なんではないかと僕は感じました。記憶に鍵を掛けて忘れてしまうのか、はたまた…というところでしょうか。今回初めて東日本大震災がでてきたのもそういう訳だと思います。発生から10年と1年。10年目という節目であれば皆幾らかは思い出し、思いを馳せるでしょう。しかし10年以上経っていくとき、この先どれだけそんな機会があるでしょう。特に被災者でない人間にとって記憶は風化していく一方です。そうやって忘れられてしまった災害の跡地では後ろ戸が開くのです(エピローグにてそんなような言及があったかと思います)。

 ここで後ろ戸を閉じる際のお作法を振り返ると、①に「そこが廃墟になる前の人々の暮らしを思う」とあります。まさにこの行為は、災害によって奪われた日常に思いを寄せ、皆が忘れてしまった災害の記憶を代わりに思い起こすことなのです。日本全国の忘れられた災害、その開きかけた後ろ戸を人々の記憶に代わり閉じて回るのが閉じ師の仕事ということです。

 


 では②の「祝詞を唱える」はなんでしょうか。(残念ながら僕は口上の前半部がよく聞き取れなかったので、多分にズレた妄想になってしまうかもしれません。)これにはアニミズム的信仰が関わってくるのではと思っています。そもそも山野は神々そのものであり、人間はそこを借りて暮らしているだけであること。神々の引き起こす災害は人間の生活をいとも容易く破壊してしまいます。土地をお返しするので、災害を起こさないでくださいというのがこの祝詞の意味するところでしょう。

 簡単に言ってしまえばそういうことだと思うのですが、ここには考察すべき要素が多々あります。まず、ここで祈っている対象の神様とは一体誰のことなんでしょう。終盤、常世で草太さんが祝詞を奏じた際に「お返しします、おおおおかみ様!」と付け加えていました。大狼?となったのですが、今にして考えてみると、「大大神」のことだったのではないかと思います(違ったらみっともないですけど)。では大大神とは誰を指すのでしょうか。ミミズ?ダイジンたち?自分はそのどちらでもないように思います。すずめの名字である岩戸、これは日本書紀だか古事記だったかの天岩戸を意識したものでしょう。とするならば大大神は日本神話の主神である天照大御神のことなんではないでしょうか。ここからはかなり妄想になります。後ろ戸から飛び出たミミズが倒れる前に、なにやら神々しい光が地面からミミズに向かって伸びていったことと思います。僕はあれこそが天照大御神なのではと考えています。なんならあの光こそがミミズを地面に叩きつけて地震を起こしているように見えたのです。

 ミミズはおそらく禍そのものでしょう。理由は分かりませんが、そのミミズは常世から現し世に出て行きたいだけなのではないでしょうか。しかし神々はそれをよしとしません。ミミズが倒れ、地震が起きた後のことを思ってみてほしいのですが、ミミズは結局また常世に引っ込んでいます。つまるところ、あの光は神々がミミズを地面に叩きつけて懲らしめているのでは、と自分は考えました。堪りかねたミミズは常世に引っ込んでいくと。その下でいくら人間が死のうと神にとっては関係のないことです。人間が血を吸っている蚊を叩くのに、表皮の微生物のことなど気に留めないのと同じことです。

 しかし微生物たる人間にはたまったものではありません。そもそもミミズが出てくる後ろ戸とは人間の作り出したものです。災害によって常世と繋がってしまった扉。すっかり災害のことを忘れ、その扉を放置したのは人間です。人間に見捨てられ、神々にも返却されていない、そんな無法地帯となった場所にある開きかけの扉は、ミミズにとって格好の的なのです。だからこそ閉じ師はその尻拭いとして扉に鍵をかけ、神々に土地をお返しすることで常世との繋がりを消滅させているのではないでしょうか。

 神々はミミズを現し世に出したくない、人間は地震を起こしてほしくない。後ろ戸を閉じる神力じみた鍵は両者の利害が一致しているために、神々から与えられたものだと思います。しかし、閉じ師がしくじった際には容赦なく神が直接手を下し、その弊害として地震が引き起こされる、そんな構図になっているのではないでしょうか。これが②の祝詞の奏上の裏にある背景だと考察したのですが、裏読みしすぎですかね。

 

 

 

③「扉に鍵を掛ける」

 鍵を掛けるという行為は、タイトルに戸締まりというワードがあるように今作においてかなり重要な意味合いを持っていることは容易に推測されます。

 この話題に入る前にすずめの抱えるパーソナリティの問題について触れたいと思います。実は僕は終盤まですずめのパーソナリティの問題に気づきませんでした。すずめが常世で幼い自分にイスを渡す際に、「私は何ももっていないと思っていた」と言い出して、僕は「え!?そうだったの?」となった具合です。たしかに昔なにやらあったのは時折フラッシュバックのように挟まれる回想で分かってはいたのですが、それが現在のすずめに影を落としているように見えていなかったんですね。両親はいないけれども、母親代わりの人に愛情こもったお弁当を作ってもらって、友人や人間関係にも恵まれ、不自由もなく暮らし、イスを見れば亡き母の愛も感じられて、最近は好きな人ができたり、旅先では良い人に恵まれておいて、何も持っていないと思っていたんですかと。でも改めて言動を振り返ってみると、割と捨鉢な性格をしているんですよね。動くイスや喋る猫のファンタジーで誤魔化されていましたけど、このご時世に若い女の子がヒッチハイクで一人旅など危機意識の欠片もありません。「天気の子」においてあれだけ家出少年の危うさを描き出しておきながらです。他には「死ぬのは怖くない」、「生きるも死ぬも結局運次第」などと自分を大事にしてるとは思えない発言も多々ありました。やはり震災で母を亡くしたことでこのような死生観が形成されたのでしょう。同時に、失った母親からの愛を求め続けても二度と得られず、そのうちに周りの人から向けられる愛への感性が死んでしまったのでしょうか。自分は愛されていないとそう思っていたのかもしれません。この呪縛の原因はすずめが震災の記憶を処理しきれず、封をしたことにあると自分は思います(たかだか4歳の子供が3/11の日記を黒塗りするのは見ている方にもかなり辛いものがありました)。

 この映画全体を通したすずめの旅の終着点は図らずしも東北の宮城、その忌まわしい記憶の生まれた場所でした。すずめは鍵を掛けて封印した記憶と再び向き合うことになります。(実は僕も宮城には嫌な思い出が、、、関係ないですね。) 常世で4歳の自分にイスを手渡す際に、封印していた記憶が蘇るのですが、すずめは子供の自分にエールを送りました。旅の道中で人々の優しさに触れ、恋をして、環さんとわだかまりをぶつけ合うという経験を経ています。この旅路で「自分はもう全部持っていた」ことに気付いたからですね。そして後ろ戸を閉じて現し世に戻ってくるのでした。これが大まかなすずめのストーリーラインだと思っています。大事なのはラストの戸締まりは決して後ろ暗いものに鍵を掛けるためのものではないということです。「行ってきます」と家を出て学校に行くように、実家を出るときのように、明るい未来に向かって前進するための、震災の記憶から前進するための前向きな戸締まりです。

 ここで閉じ師のお作法③「扉に鍵を掛ける」に話を戻します。この戸締まりもまた前向きな戸締まりのことであると考えられます。震災の記憶は封じ込めたり、忘れて風化させるものではなく、いつかどこかの時点で正面から向き合う必要があります。震災でインフラがやられたなら、補強する。避難がうまくいかなかったのなら避難計画を見直す。食料に困ったのなら非常食を常備しておく。大切な人を失ったなら、二度と失わないように防災意識を高める。やれることはたくさんありますし、人生はまだまだ続きます。どこかで痛ましい記憶にケリをつけ、明るい未来に向かって前進しなければならないのです。その決意表明こそが後ろ戸の戸締まりであり、この映画に込められた思いなんだと僕は思います。

 と、こんなことを言いましたが、僕はこの災害大国にて幸運にもまだ大災害で被害を被ったことも、大事なものを失ったこともありません。だからとても偉そうなことなんて言えた立場ではないです。けれどもそんな自分も災害の体験談を聞いてできることはあるはずです。見聞きした災害の記憶を今後自分はどうしていくのか、目を背けることは簡単ですけど、大事なものを失わないために考えていかなければならないな、と言うのがこの映画を見ての一番の感想です。

 

 

 

 ここから先は上で触れられなかった雑多な感想になります。

 まずダイジンたちです。彼らの正体は草太さんの発言など端々の情報から推察するに、要石の前任者であった150年ほど前の、時の右大臣・左大臣がなにがしかの神様と溶け合ったものなのでしょう。猫の八百万の神とでしょうか。はじめに出てきた白いダイジンはガリガリに痩せていました。これは既に封印が弱まっていたということなんでしょうか。ここで一点疑問なのが、要石は後ろ戸の外にあるものなのかということです。草太バージョンの要石はミミズに直差しだったと思うのです。実は劇中、草太さんは一度も要石が扉のどこにあるか言及していません(記憶が正しければ…)。また要石状態の黒いダイジンの描写もありませんでした。つまり劇中で要石の正しい使用法が明らかにされていないんです。白ダイジンの要石はミミズに刺さっているのが本来の形だったのではないでしょうか。一方で最終的には元の木阿弥に戻る形でダイジンたちが再び要石となったのですが、こちらはミミズに直差しでした。つまるところ、要石が外にあった時点で既に封印は解けていたということではないのかなと思ったのです。

 しかし、ミミズに直挿しが本来の用法であるならば、日本の東と西に一柱ずつ要石があるという発言の筋が通らないような気もします。もしかしたら直差し方式と扉の近くに配置する方式の二種があり、それぞれの効能は全くの別物なのかもしれません。そもそも弱まった要石であるダイジンたちで再び同じ方法で封印ができるものなのか疑問ですしね。それか僕がなにか見落としてる所があるのかもしれません。

 ダイジンたちの謎は深まります。草太さんは嫌い(?)だから要石にしたり、環さんに乗り移ったり、すずめは好きだから導いたりと彼らの思惑は正直わかりません。善悪など考えていない、神様は気分屋だからと言われてしまえばそれまでですが。すずめを導くという目的もどこから湧いてきたのでしょう…?

 この二匹のデザインはどちらも片目だけ反対色になっており、陰陽道でよく見かける白黒の勾玉、太極図と同じです。そして白猫は風船のように膨らむと黒に、黒猫は化け猫になると白色に変化します。これらは何を意味するんでしょうか。調べるに、太極図は陰と陽のバランスを表すそうです。攻撃的な側面が白、守護的な側面が黒として体色に現れるのかなと思ったり。陰と陽には善悪の区別がないということも関係していそうですが特に思いつきません。

 まだ謎はあります。それは常世常世に続く扉です。人生で一度、後ろ戸から常世に行くことができるそうです。しかし、再び常世に行くにはその扉からしか入れないそうです。これに対する考察はもう、作劇上の都合でそうなっています以外僕には思いつきません…。常世では建物が炎上していたり(阪神淡路大震災?)、船が家に乗り上げていたりとなにやら意味深な描写が多かったりしましたけど、正直常世関連をこれ以上考察する気力は残っていません。なにより日本書紀古事記等、古典への造詣がないとどうにも深掘りできそうにない気がしますし…。                 

 


 全然ラブコメ要素について触れていませんでした。というのも今回は女性主人公が年上男性に惚れるという展開でして、男で、ましておっさん化が始まってる僕には感情移入が難しかったのです。「君の名は。」や「天気の子」、「秒速5センチメートル」を見たときは一時的に恋愛脳になったりもしたもんですが、今回はそんなことはなく。コメディ要素に関しては、僕は劇場内で笑い声を出せないタイプなので笑ったりしませんでしたけど面白かったです。キモい顔でニヤついているのでこのマスク時代に感謝です。

 あとの小ネタとしては音楽関連で昭和の懐メロたち「ルージュの伝言」や「夢の中へ」が流れたり、「君の名は。」や「天気の子」の劇伴が挿入されていたりしました。これらは決して回顧的な感傷に浸るためではなく、今この時に必要だから流しているという印象を受けまして、この映画のテーマ、有り体に言えば「過去の上に今がある」というのにも通ずる演出なのかなと感じました。

 その他気になったところと言えば、あの三本脚のイスの出どころです。まずおさらいをしておきます。はじめに母からイス(四本脚)を作ってもらいました。しかしおそらく完成品であるこの四本脚のイスは震災で流されてしまったのでしょう。すずめはイスをなくしてしまいます。そんな時に未来から三本脚のイスが届きます。このイスと共に十数年の歳月を過ごし、常世にて過去の幼い自分に手渡します。

 ここで考えてみてほしいのですが、震災でなくしたイスは壊れてはいても海底かどこかにその残骸が残っているはずです。つまり元のイスの残骸と未来から届いた三本脚のイスが同時期に存在することになります。視点を変えて、三本脚のイスに着目してみます。このイスの出どころを追っていくと、4歳の頃に貰って、それを約十年後の自分が4歳の自分に手渡す。それを無限に繰り返すだけです。このイスは誰かに作られたという歴史を持ち合わせていません。この時間軸上に突然虚無から沸いて出てきたのです。この三本脚のイスは母親が作ったものと言えるのでしょうか…。なぜなら今もなお海底にあるイスこそ母親が作った本物のイスなのだから…。うーん、恐ろしやタイムパラドックス

 


 以上書きたいことはほぼ書けました。正直記憶が怪しいところが多々あるので、ちんちくりんなことを書いているかもしれません。それを世に出すのは恥ずかしく、もう一度観てから内容を改めようかとも思ったのですが、しかしこれこそ僕の初見の生の感想なのであり、それを体面を気にして捻じ曲げてしまうのは、元々の記事の趣旨からも外れてしまうのでやめておきました。

これから「新海誠本」を読もうかと思います。と、その前に小説版を買ったのでそちらから読みます。以上!

2021年を振り替えって印象に残ってる作品たち

 2021年も年末です。今年を振り返ってみると映画やらゲームやら色々な作品を楽しんだ一年でした。そこで、今年印象に残った作品を一言コメントも添えつつ紹介していきたいな、というのがこの記事の趣旨です。といっても選考基準は今パッと振り返ってみて記憶に残っているかどうかなので、それがベストだとか載ってないからつまんなかったとかそういうわけではないです。

 

[ゲーム部門]

・「God of War
二つの意味で神ゲーです。1月にPC版が出るそうなのでPS4持ってない人も是非。

・「Horizon zero dawn」
こっちも神ゲーです。緻密で壮大な世界観に圧倒されました。

・「Before your eyes」
PCカメラを使った新しいタイプのゲームです。プレイヤーのまばたきを検知して進めるゲームなのですが、ただの色物ではなくストーリーも秀逸でした。端的に言えば泣けます。

 

[映画部門]

・「ジョジョ・ラビット」
ヒトラーをイマジナリーフレンドに持つ(ヤバい)ドイツ少年のお話です。戦争ものだけど全体的にコミカルです。が、色々心に来ました。

・「ジョーカー」
僕が言うまでもなく名作です。自己演出、自己陶酔で悪ぶってる人らがしょうもなく見えます。

・「ショーシャンクの空に
往年の名作です。冤罪?で捕まった男の獄中生活の話です。見て損ないです。

 

[小説部門]

・「華氏451度」
名作ディストピア小説です。本が禁じられた社会の話です。特にラストが良かったです。

・「あなたの人生の物語
哲学大好きSF大好きな理系の人間にはぶっ刺さると思います。

[漫画部門]

・「九龍ジェネリックロマンス」
今は無き九龍城砦で繰り広げられるロマンス話です。ためし読みの一話でほれました。

 

[音楽部門]

・「逃亡」
ヨルシカの曲です。はまった当時は相当現実逃避したかったんです。

・「Flight」
映画「マン・オブ・スティール」の劇伴です。映画のトーンとばっちり合ってるしかっこいいです。

 

以上、今年の印象に残った作品たちでした。
来年もいい作品に出会いたいですね。

2021年に観た映画リスト

計101本

アベンジャーズ: エンド・ゲーム

劇場版 呪術廻戦 0

キングスマン: ファースト・エージェント

アベンジャーズ

アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー

スクール・オブ・ロック

マトリックス レザレクションズ

ジョン・ウィック

ロッキー

ベイビー・ドライバー

ハングオーバー!!! 最後の反省会

メン・イン・ブラック

ヴェノム: レット・ゼア・ビー・カーネイジ

トータル・リコール (2012)

英国王のスピーチ

ピエロがお前を嘲笑う

Fight Club

ジョジョ・ラビット

マトリックス レボリューションズ

マトリックス リローデッド

マトリックス

エターナルズ

DUNE/デューン 砂の惑星

アルゴ

ズートピア

きっと、うまくいく

インクレディブル・ファミリー

ファンタスティック・フォー (2015)

Mr. インクレディブル

ファンタスティック・フォー: 銀河の危機

ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]

レディ・プレイヤー1

ニュー・ミュータント

シャン・チー/テン・リングスの伝説

フリー・ガイ

X-MEN: ダークフェニックス

デッドプール2

LOGAN/ローガン

X-MEN: アポカリプス

デッドプール

X-MEN: フューチャー&パスト

ウルヴァリン: SAMURAI

X-MEN: ファースト・ジェネレーション

ウルヴァリン: X-MEN ZERO 

X-MEN: ファイナル ディシジョン 

X-MEN2

アナと雪の女王2

BURN THE WITCH

劇場版 BLEACH 地獄篇

劇場版 BLEACH Fade to Black 君の名を呼ぶ

劇場版 BLEACH The DiamonDust Rebellion もう一つの氷輪丸

劇場版 BLEACH MEMORIES OF NOBODY 

僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールドヒーローズミッション

ザ・スーサイド・スクワッド

トイ・ストーリー 4

竜とそばかすの姫

ゴジラVSコング

ブラック・ウィドウ

グリーン・マイル

プライベート・ライアン

300

メッセージ

ワンダー・ウーマン 1984

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 

シャザム!

アクアマン

ノマドランド

ジャスティス・リーグ

ジャスティス・リーグ: スナイダーカット

フォレスト・ガンプ

ワンダーウーマン

スーサイド・スクワッド

タイタニック

スタンド・バイ・ミー

ダークナイト ライジン

ダークナイト

バットマン ビギンス

JOKER

ショーシャンクの空に

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

ドラゴンクエスト ユアストーリー

マン・オブ・スティー

インセプション

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

キングコング 髑髏島の巨神

GODZILLA (2014)

X-MEN

名探偵コナン 緋色の弾丸

シン・エヴァンゲリオン劇場版 𝄇

スター・ウォーズ クローン・ウォーズ

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け

ハン・ソロ スターウォーズストーリー

スター・ウォーズ 最後のジェダイ

ローグワン スターウォーズストーリー

スター・ウォーズ フォースの覚醒

スター・ウォーズ シスの復讐

スター・ウォーズ クローンの攻撃

スター・ウォーズ ファントム・メナス

スター・ウォーズ ジェダイの帰還

スター・ウォーズ 帝国の逆襲

スター・ウォーズ 新たなる希望

2021年にプレイしたゲームリスト

Cuphead
あつまれ どうぶつの森
NieR: Replicant
Voice of Cards ドラゴンの島 (Demo)
Detroit: Become Human
Marvel's Avengers (War for Wakandaのみ)
Alpaca Stacka
ドラゴンクエスト10 (Ver. 5.3 - 5.5のみ)
Before your eyes
Hollow Knight (DLCのみ)
アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝
NieR automata  (3C3C1D119440927のみ)
Star Wars Battle Front 2 (キャンペーンのみ)
Horizon zero dawn

バイオハザード RE:3

 

Detroit: Become Humanをプレイしました(知的ぶりたい編)

 前回の記事では自分の愚かさ、短絡さを書きましたが今回は知的ぶりたいと思います。多分読んでもつまんないでしょう。一応言っておくと本編の考察ではありません。

 本題に入ります。そもそも僕は昔から哲学っぽいことを一人で妄想するのが好きでして、色んな映画やゲームの影響でしょうが、人間の意識や自我とはなんなのかと考えてみたり、また技術畑の人間なもんですから、じゃあ人工知能は自我を持てるのかという話題にも興味がありました。そんな中でのデトロイトビカムヒューマンはまさにドンピシャの作品だったわけです。本作ではアンドロイドは果たして人間と同様の自我を持つことができるのかが大きなテーマになっていたと思います。そして本編では自我を持った個体を変異体と名付けていました。ここでまず思ったのは人間の自我とは一体何なのかということです。本編ではそれらは当然のものとして一切掘り下げられません。人間は機械と違って自我を持ってることが大前提になっているわけです。そして、それらを自我が無いはずの機械が持てるかどうかにだけ物語の焦点が当たっているように見えます。しかし、これは僕個人の意見ですが、本編の物語の裏には直接触れられこそしないものの、人間の自我の不確かさというテーマが含まれていたように思うんです。

 そう思うに至った訳を書きたいのですが、その前に情報系の端くれである僕が人工知能をどう見ているのか書きたいと思います。最近はもう色んなところで人工知能という言葉を聞きます。やれAIが運転するだの将棋をするだの絵を描くだの。捉えようによってはSiriだって人工知能と言えます。ここ数年ディープラーニングだなんだで人工知能の進歩が目覚ましいというのは技術畑に入って日の浅い僕にでも分かります。そして世間にはいつか近い将来にAIが自我を持つんじゃないかと、どの程度本気なのか分かりませんが言っている人もいます。でもそれらAIがどういう原理で動いているのかある程度知っている身としてははっきり言って眉唾ものです。今や全盛のディープラーニングなんてのは蓋を開けてみれば、ただの掛け算と足し算が大量に繰り返されているだけのものです。そんなものに自我が宿るというのならそこら辺の電卓も自我を持ちます。AIや人工知能という言い方が変に夢を抱かせてしまいますが、結局はブラウザやOSと同じプログラムの一種です。0と1の羅列が電気信号として半導体の中を流れる物理現象に過ぎません。

 さてここまで読むと僕はまさにアンドロイドは自我を持たない派に思えるでしょう。というかそう書いてるわけです。でも、もし私たち人間の考える自我というものはどこにも存在しないとしたらどうでしょう。言い方を変えれば、人間に自我がないとしたらどうでしょう。お気づきでしょうが、さっきの僕の人工知能に対する考えでいくと人間も自我を持っていないことになってしまいます。ご承知のように人間の体なんてのはものすごく複雑ではあれど化学反応という物理現象で動いていますから。さっきの論理で行くと、もとを辿ればただの物理現象である人間が自我を持つなんて眉唾もんです。昔どこかで読んだのですが、動物の胚を研究している生物学者へのインタビューで、胚に命はあると思うかと尋ねられ、「命だと思ったことはありません、こんなのはただの細胞です。」と答えていたのがずっと記憶に残っています。その胚が分裂しただけの細胞の塊である僕たち人間は本当に自我なんてもっているんでしょうか。こんな話もあります。人間が腕を動かすとき、腕を動かそうと意識するより先に、すでに脳が腕の筋肉に命令を出しているそうです。つまり体の化学反応が行動をすでに決めていて、意識というのはそれに追従するだけだというんです。そしてさも自分が考えて行動したかのように錯覚させるのです。これは受動意識仮説だなんて呼ばれています。もし人間の意識・自我がこの仮説のとおり錯覚に過ぎないのだとしたら、自我があると主張している私たち人間はまさに同じく自我があると主張するDetroitの変異体と何も変わらないことになります。

 しかし、たとえ錯覚であったとしても、それを自我として私たち人間が認識しているのならば、逆説的に自我があると主張する変異体たちも自我があると言っていいんじゃないでしょうか。普通の意味での自我とは違いますが、こういう解釈もありだと思います。

 

 少し話が変わりまして、このDetroitについての記事を書きたいと決定的に思ったのは、コナーがクロエを任務のために撃つか否かの選択を迫られるシーンでした。それまで僕は自分だったらこうするという選択肢ではなく、コナーをできるだけ任務に忠実させる選択肢をとってきました。しかしこのシーンで僕は激しく悩んでしまいました。このゲームで最大の葛藤ポイントだったと思います。個人的にはハンクにも嫌われるし、人の見た目をした無抵抗のものを撃つことへの少なからぬ嫌悪感を感じていました。一方で撃てば任務のための重要な情報をもらえるということで、コナーだったらどうするだろうと僕はすごく揺れていました。しかし悩むうちに、撃ちたくないと思っているのは自分なのかコナーとしてなのか、任務を達成したいのはコナーなのか自分なのか判然としなくなってしまいました。それまで僕は他のゲームと同様に、自分とは別人格のキャラクターがいて、そのキャラクターの行動をコントローラーで手助けしてエンディングまで導くというマインドでした。(キングダムハーツを例に取った場合、プレイヤーはアクション部分に介入するだけであり、そのキャラクターの人格を変えたりはすることはできません。)なのであくまでコナーと自分は別人格と認識していたのですが、ここにきてプレイヤーこそがコナーのAIであり、コナーの自我とはつまりプレイヤーである僕自身の自我そのものであると感じたわけです。僕が選択の度にしてきた葛藤はコナーの変異の表れに他ならなかったのです。ということは、自我を持っている(と主張する)僕がゲームの始めでコナーを操作し始めた時点で、コナーは変異体になったのです。これは自我を持つと主張する変異体を同じく自我があると主張する人間が操作するというメタ構造になっており、変異体と自分を同一視するように開発者は仕向けていたのかなと邪推したりしています。変異体と自分を同一視したときに、「ロボットも人間と同じように自我を持つんだ」と捉えるか、「人間の自我もロボットのように不確かなものだ」と捉えるかは人次第だと思います。僕の場合は上に長々と述べてきたように後者だったようです。

 余談ですが、アンドロイドたちは自我に目覚めたあと、みな一様にジェリコを目指していました。どうやって彼らはジェリコを知ったのでしょうか。最初ジェリコにいた人たちはあまり外には出ていない様子でしたし。そしてアンドロイドの産みの親であるカムスキーは当然のようにジェリコの場所を知っていました。なんらかの目的でカムスキーは設計時に、どこかのタイミングでアンドロイドを変異させジェリコに向かうようプログラムしていたと僕は考えてます。結局アンドロイドの自我は錯覚だった説推しですので。なんにせよ、カムスキー周りの話に開発者のアンドロイド引いては人間の自我に対するスタンスが込められてそうです。

 

 すごく長くなりました。言いたいことを分かりやすく書いたとはとても言えないですが、これで締めくくろうかと思います。感想だけでなく、「rA9」など本編の考察もしてみたいところですが、大変そうなのでやめときます。

Detroit: Become Humanをプレイしました

 Detroit: Become Humanをプレイしました。こういう自分で選択肢を選んでいくタイプのナラティブゲームは大体面白いですね。どの選択肢を選んだかで自分の性格や傾向を改めて知れるのも面白いところです。例えばマーカスが放送局に侵入するときに目撃者を出してしまって、彼らは気絶させましたけど、これ以上目撃者を出すわけには行かないと焦った僕は、放送室から逃げる職員を撃ってしまいました。結果として世論から反感を買うという最悪な展開になったわけで。どうにも僕の場合、なにか失敗をするとそれを取り返そうとして視野が短期的になってしまうようです。で結果もっと大きな失敗を招くと。数回そんなことがあって流石に学びましたが。他にはゲームに限ってですが、ゴールが目の前にぶら下がってると飛びついちゃいがちという、前からも認識してはいたんですけど、そういう傾向があるなと再確認しました。いつもやっちゃうのはマイクラ人狼で自分が人狼のときに周りに大勢村人が集まっていると、「ここで全員倒せば…!!」という考えに取り憑かれ、よしイケると謎の自信に満ち溢れボコボコにされるというやつです。バカです。今回もありまして、それはカーラがジェリコから脱出するシーンで、アンドロイドたちが出口に向かって走っているんですけど後ろのSWAT部隊に撃たれてどんどん倒れていくんです。自分もこのままでは撃ち殺されてしまいます、さぁどうしますかとなって「走る」、「死んだふりをする」、「降伏する」等々選択肢が出てきます。僕は「出口がすぐなんだから走って逃げるんだ! 弾? 当たらん当たらん!」といって駆け出しました。撃たれました。懲りずに這って逃げました。アリス共々仲良く死にました。これにてカーラ編終了! 本当にもうこのときは絶句しましたし、馬鹿なことをしたと激しく後悔しました。これまでずっと丁寧にプレイしてきたのにこんな下らないことで終わってしまうのかと。ちなみにこのエンドに辿り着いた人は全体の3%しかいないそうです。ルートコンプのために周回している人もいるでしょうから、一周目でこの結末に辿り着いた僕はもう生粋の愚か者と言っていいでしょう。ちなみにこの時は「死んだふりをする」を選択するのがベストでした。僕は死んだふりだなんて賭けをするより逃げた方がいいだろという考えだったのですが、弾に当たらずに逃げるという方がよっぽどの賭けというものです。どんな時も冷静な判断を心がけましょう。一周目終わった後にすぐここからやり直しました。

 

 以上自分の愚かさをつらつらと述べてきましたが、この記事を書き始めたのはもっとなんか知的な事を言いたかったからです。ですが次の記事に回したいと思います。なので今回の記事タイトルは「Detroit: Become Humanをプレイしました(愚かさ編)」に訂正させて頂きます。