高校生の頃の思い出

 高校生の頃はバスから地下鉄に乗り継いで通学していた。目的の地下鉄駅に行くバスは二種類あって、一つ前の地下鉄駅から来る便と目的の駅から来る便(環状線)。前者をA線、後者をB線として、僕が最寄りのバス停につく時間帯にはまずB線がやってきて、その数分後にA線がやってきていた。先にくるB線はいつも混んでいて座れないこともしょっちゅうだったから、僕はあえてB線を見逃して数分待ってからA線に乗っていた。

ここまでなら別に語るような思い出でもなんでもないんだけど。

いつも自分より少し早い時間にバス停に来て、僕と同じようにバスを一本見送ってから次の便に乗る四, 五十代のサラリーマンのおっちゃんがいた。外見は森永卓郎みたいで、僕と同じか少し小さいくらいの背丈だった。

だからたまに僕が少し家を出るのが遅れて、バスをどっちとも乗り過ごすかもと焦って、実際バス停に全然人が並んでいないときでも、そのおっちゃんがまだバス停にいたら間に合ったと安心できた。だけど冬になるとバスの運行ダイヤが乱れに乱れるものだから、おっちゃんがいるからって安心できなくて、実はおっちゃんも乗り過ごしてて二人して次のバスが来るまで15~20分待ちぼうけを食らったりすることもあった。

そんなことを三年間ほぼ毎日繰り返していて、当時父親との距離感が結構あった自分としてはそのちっちゃいおっちゃんに父親よりも親しみを感じたりもしていた。

だけどその人とは結局一回も言葉は交わさなかった。そもそもお互い人混みを避けるためにわざわざバスを見送るタイプの人間だから、さもありなんという感じだけど。

卒業式の日、高校は私服校だったのでスーツを着ていった。その日もご多分に漏れずバス停で会って、自分の晴れ姿を見せられたのはなんだか誇らしかったのと同時に寂しい気持ちになったのをぼんやりと覚えている。でも別に挨拶だとかは交わさなかった。

言葉でコミュニケーションをとれば良かったとかは今でも全く思わない。話すと知り合いになって、毎朝気を遣わないといけなくなったかもしれない。話してみたら実はすごく嫌なおっちゃんだったかもしれない。当時どんなことを思っていたかはもう覚えていないけれど、言葉を交わすことが必ずしもいいとは今でも思えない。なにより、あの無言の関係性が僕はすごく心地よかったし。

多分まだあのおっちゃんは地元にいるだろうし、帰ったらばったり会うこともあるかもしれない。でも今会っても昔ほどの親しみはもう感じないだろうし、挨拶したり、ましてやこの一方的な感傷を押し付けたりはしないだろう。ドライかもしれないけど、それも悪くないと思う。